ボレロ - 第三楽章 -
ひととおりの料理がすみテーブルに残った食器類が片付けられると、紗妃ちゃんは肩が上がるほど大きなため息をついた。
「はあぁ……緊張しました。
ナイフもフォークもいつも使ってるのに、ここで使うと別物みたい。
優雅に食事するつもりでいたのに、マナーばかり気になって全然ダメ」
「慣れ……かな。誰でも初めてがある。あとは経験を重ねることかな。
紗妃ちゃんは自分が思うほどじゃない、ちゃんとできてたよ」
「そうですか? ホントに?」
「うん、自信を持っていいよ。
なんて偉そうに言ってるが、俺だって正式なマナーが身についているのか怪しいものだけどね」
「そんなことありません。近衛さんがお食事している姿、とってもステキです」
「そぉ?」
「はい。すごく美味しそうに召し上がるから、わたしも美味しくて。
きっと他の人だったら、お料理の味もしなかったかも……」
「紗妃ちゃんが美味しいと感じてくれた、それだけで今夜は満足だな」
「本当にどれも美味しくて、すごく幸せな気分になりました」
「ありがとうございます。私どもにとって、最高に嬉しいお声をいただきました」
デザートプレートを優雅に置きながら、羽田さんの柔らかな声がする。
周囲の気配を感じる余裕もなく話をしていた紗妃ちゃんは、音もなく現れたギャルソンに少々驚いた顔をしたが、羽田さんへ満面の笑みを見せ、
「こちらこそありがとうございました。素晴らしい誕生日ディナーになりました」
自分の言葉で素直な感想を伝えたのだった。
紗妃ちゃんの心からの笑顔と、心持ちの良さが羽田さんの心を動かしたのだろう。
「お誕生日おめでとうございます」 と、周囲が気づくほどのやや大きな声で祝いの言葉が添えられた。
「お嬢さん、お誕生日ですか。おめでとう」 の声がどこからともなくわき起こり、紗妃ちゃんへ次々に声がかかる。
いきなりのことに顔を赤らめていたが、さっと立ち上がった彼女は左右前後へ 「ありがとうございます」 と礼をのべた。
そのあとまもなく、あのお嬢さんはどちらの……といった会話がそこここから聞こえてきた。
『シャンタン』 に初めて姿を見せた紗妃ちゃんを知る人はいない。
おそらく、今夜ここに居合わせた客から羽田さんへ、紗妃ちゃんの素性について質問があることだろう。
聞かれた羽田さんは言葉を濁すことなく 「須藤孝一郎さまの、お嬢さまでいらっしゃいます」 と伝えるはずだ。
そして、客の視線は遠慮を含みつつも紗妃ちゃんに向けられる。
さきほどの行動が好印象を与えているため、誰もが好意的に見つめるのではないか。
若い女性はそれでなくても興味の対象となるのだが、須藤家の令嬢は最高のかたちでお披露目となった。
みなの視線を懸命に背中で受け止めながら、それでもずいぶん緊張が取れた紗妃ちゃんは、会話も滑らかになってきた。
「こちらのホテルでお仕事をされている方って、みなさんすごいわ。尊敬しちゃう」
「客を気持ちよく迎えるのが彼らの仕事だからね。
指先、つま先、髪の先まで、神経を行き渡らせるそうだ」
「近衛さん、詳しいんですね」
「ふっ、さっきエレベータまで送ってきた狩野の受け売りだよ。
彼は、このホテルの副支配人で、大学の友人なんだ」
「そうですか……ということは、近衛さんがご一緒してくださったから、わたしへもこんなに良くしてくださるんですね」
頭のいい子だと思っていたが、自分の立場も冷静に見られるとは、さすが須藤家のお嬢さんだ。
精一杯背伸びしたレディーの観察が楽しくなってきた。