ボレロ - 第三楽章 -
「やぁ、きたね。記者連中に会わずに入れただろう」
「えぇ、驚いたわ。リポーターが待ち構えているだろうと思ったのに、
肩透かしにあった気分よ」
「余裕だな。今は何事もなかったが、帰りはわからないぞ。
気を抜かないように」
「わかってます。帰国早々こんなことになって、ご迷惑をおかけします」
海外で出産の準備をする静夏ちゃんの元を訪れた知弘さんは、帰国したばかり
だった。
忙しい職務をやりくりして、時間を確保しては身重の婚約の元へ足を運んでい
るが、今のこの状況では、数日でも専務が日本を離れるのは無理だろう。
離れてすごす二人のつかの間の時間を奪ったようで、知弘さんにも静夏ちゃん
にも申し訳ない気持ちだった。
「やけに殊勝じゃないか」
「だって……私のせいですから。私の至らなさが招いたことだと、
叔母さまがおっしゃったのよ」
「加南子姉さんの言うことだ、気にしなくていい。
あの人はいつも自分が中心でなければすまない人だからね」
「でもわからないわ。どうして叔母さまが情報をご存知だったの?
私も漆原さんからお聞きしたばかりだったのよ。
ねぇ、やはり叔母さまが何かご存知なのかも……」
「座りなさい。僕の方もいろいろと報告がある。
じきに彼らも来るはずだ、話はそれからにしようか」
香りとともにティーカップが運ばれてきて、小花柄のカップに目が留まった。
磁器の国内ブランドの一品だった。
浅見さんが専務秘書に配属されてひと月ほどがたつが、専務室を訪れるたび
に、それまでの室内が少しずつ変わっていた。
来客用の茶器や観葉植物の配置、壁にかけられた絵もそうだ。
このカップはいうに及ばず、おそらくコーヒーの銘柄や茶葉も彼女の意向が
反映されているはず。
浅見さんの向こうに浜尾さんが見えてしまうほど、彼女の好みは浜尾さんに
似通っていた。
それもそのはず、浜尾さんが育てた人なのだから。
この部屋が、どことなく宗のオフィスに似てきたと心の奥で苦笑いしていたが、
手にしたカップから立ち上るベルガモットの香りに、こんなところまで浜尾
さんのクセを受け継いでいるなんて……と妙な感じがした。
ベルガモットは宗が好む香りだった。
宗の香りの好みを浜尾さんが心得ていたのか、浜尾さんの選んだ香りを宗が好
むようになったのか、それはわからないが、浅見さんまでも近衛副社長の嗜好
を把握しているということに、微かなジェラシーを感じずにはいられない。
だが、彼女が優柔な人材であるのは認めるところだった。
浅見さんのポジションは 『エグゼクティブ・アシスタント』
単なる秘書ではなく、事務的業務のほかに、重役が仕事を効率よく出きる環境
を整える重要な職務で、浅見さんのような人でなければ務まらないだろう。
香りを楽しむ仕草をしながら浅見さんの背中をおっていると、ノックの音とと
もに、もうひとりのエグゼクティブ・アシスタントが姿を現した。