ボレロ - 第三楽章 -
新緑の街路樹からこぼれる日差しは初夏を思わせるものだった。
結歌へ近況報告終え、次にやってくる言葉を予想しながら鮮やかな新芽に目を向けたが、目の端に結歌の怒った顔が見えていた。
「えーっ! 婚約指輪はいらないって、宗さんの前で言ったの?」
「うん……」
「宗さんが、生活が苦しいとか資金がないとか、そんな境遇だったらわかるわよ。
”わたし、指輪なんていりません。あなたの愛があればそれで充分なの” って言ってあげれば感動するでしょう。
それでも彼なら、男の意地にかけても珠貴に指輪を贈ろうとするわ。きっとそうよ。
それをなに? 必要ないって言っちゃうなんて、どういうことよ!」
「だって、私は必要ないと思ったから……
彼の気持ちも確かめずに、自分の考えを並べたことは反省してるのよ。
結婚が決まってもいないのに、婚約指輪の話なんてするべきじゃなかったのに……
つい熱がはいって」
「まぁ、珠貴らしいといえば珠貴らしいけど。で、彼、なんて言ってるの?」
「なんにも言わないわ。だから気になるんじゃない。ねぇ、結歌、どう思う?」
「私にわかるわけないでしょう!」
街中のカフェテラスに結歌の声が響き渡る。
道の向こう側で信号待ちをしていた人がこちらを振り返ったくらいだから、声楽家の彼女の声は相当遠くまで聞こえたはず。
みなに振り向かれ恥ずかしい思いだけでなく、親友に怒られて情けない思いで左手で顔を覆った。
「左の手は、指輪の手だということをご存知ですか」
静かに話をはじめたのは、打ち合わせのために同席している蒔絵さんだった。
結歌がお母さまへ贈るペンダントのデザイン画が仕上がり、それらを見てもらうために三人で顔をそろえた。
デザインが決まったところで、『榊ホテル東京』 の西村さんからうかがった話を披露した。
私の情けない熱弁もふくめて……
「手に意味があるんですか?」
「左手はブライダルフィンガーと呼ばれ、結婚するまでは指輪をしてはいけないと言われた時代もあったそうです。
左手は心臓につながっているとされ、薬指と心臓は ”愛の血管” でつながっていると信じられていました。
指にもそれぞれ意味があるんですよ。左手の薬指は ”愛の絆・証” とされています」
「愛の血管なんてロマンチックね。デザイナーの方はそんなことまでご存知なのね」
「ものの由来や意味を知れば見えてくるものがあるのだと、生前父が話してくれました。
父もジュエリーデザイナーでした」
生前のお父さまのデザイン画を形にしたくて同じ道を進んだという彼女の話に、結歌は感心しきりといったようだ。
「私、蒔絵さんに結婚指輪をお願いしちゃおうかな。いかがですか?」
「はい、私でよろしければ」
「わぁ、嬉しい! さっそくだけど、指輪のデザイン画を拝見したいわ」
「指輪って、結歌、結婚の予定は?」
「アナタ、私にケンカを売ってるの? 予定なんてないわよ。ないけど準備だけしておくの。
そのときがきたら、蒔絵さんにリングを作っていただくのよ。文句ある?」
結歌の良く響く声はテラス内の客の耳にも届いたらしく、クスッと笑う声が左右から聞こえてきた。
そのときは恥ずかしさで声をひそめた結歌だったが 蒔絵さんが取り出したデザインブックが開かれると
「わぁ、ステキ!」 とまた大音量が戻ってきた。