ボレロ - 第三楽章 -
「おはようございます」 の声は高からず低からず、感情を排除したのではな
いかと思える抑揚のないものだ。
いつ聞いても面白味のない声だこと……と思いながらも、忙しい中ここへきて
もらった気持ちは表さなければいけない。
「おはようございます。お世話になります」 と立ち上がって笑顔で伝えた。
彼のクセなのか、やや右に傾けた顔が私を真っ直ぐ見つめ、浅い返礼ののち
和弘さんへと体を向けた。
「近衛から預かってまいりました」
「ありがとう。君も大変だったね」
「いいえ」 とまたも感情のない返事が伝えられる。
堂本里久 (りく) さんは、近衛副社長付きの秘書で、彼も先月着任したば
かりだ。
浅見さんに目礼をして、招かれた席に腰を下ろした。
堂本さんと浅見さんは 『SUDO』 と 『近衛ホールディングス』 それぞ
れの会社から派遣された社員だった。
将来、宗は自らもトップに立ちながら私をサポートすることになるのだが、彼
が両社を把握するためには、膨大な時間と労力が必要となる。
能力的にも時間的にも無理が生じるのは明らかだ。
そのため、先を見越して双方の関係者が先方に赴き、内情を把握したうえで情
報網を確立し、その時に備える重要な役目を浅見さんと堂本さんは担っていた。
浅見里加子さんは、二年の海外勤務をへて今年近衛本社の勤務となり、先月
『SUDO』 へ赴いた。
重役秘書の経験も豊富で、なにより、あの浜尾さんが育てた人だ。
彼女の評価は語らずとも明らかだった。
堂本里久さんは、知弘さんの事業のアシスタントをしていた人で、知弘さんの
専務就任とともに帰国し、今回の相互派遣に抜擢された人物だった。
「彼を敵にまわすと怖い人物だ」 と知弘さんに言わしめる人材で、秘書とし
ての能力はもちろん、事業戦略にも関わり、ブレーンとしての役割も大きい人
といえる。
きたるべき将来に備え、双方の腹心の部下を相手方に派遣したのだった。
今回の騒動において、二社の関係者の接触は避けるべき……との意見が大方
だった。
一人歩きをはじめた噂は、私たちの想像を超えた憶測を呼んでいた。
「近衛」 と 「SUDO」 の両方に関わる人が何人かいる。
騒動の中心である私と宗はもちろんだが、知弘さんと静夏ちゃん、平岡さんと
蒔絵さん、そして、浅見さんと堂本さん。
知弘さんと静夏ちゃんの婚約は、現時点で親族にも極秘であるため外部に漏れ
る心配はなく、平岡さんと蒔絵さんが交際中であることは、社員でも知る人は
ほとんどいない。
だが、浅見さんと堂本さんは時を同じくして互いの会社に派遣されたため、
週刊誌の憶測記事である
「近衛がSUDOを吸収・・・」 を踏まえたものではないかと疑われるおそれ
があった。
近衛側が吸収合併を念頭に置き、浅見さんを 『SUDO』 に送り込んだので
はないかと疑われてもおかしくはない。
また、堂本さんについては、須藤専務の片腕であった堂本さんを 『SUDO』
の内部を知るために、近衛側が雇い入れたと考えれば、彼の入社は大きな意味
を持ってくる。
彼らが相互派遣された本当の理由を知るのは、両社をあわせてもごくわずかな
人数で、双方の社長ですら知らないのだ。
週刊誌の記事がでたことにより、見方によっては吸収合併のための人事とも受
け取られかねない。
両方にかかわる浅見さんと堂本さんの立場を守るために、知弘さんの提案で
今朝の会議がもたれたのだった。