ボレロ - 第三楽章 -


「学生時代に交際していた男性がいました。その頃の私には、彼がすべてでした。

彼は、私が須藤の家を継ぐ立場であることにも理解がありました。 

先に卒業した彼は、将来のために 『SUDO』 に入社してくれました。    
    
父も彼へ期待し、いずれ自分の跡を託す人材として接していました。 

彼も期待にこたえるために努力していました。

でも……いつからでしょう、彼がその期待を重荷に感じるようになったのは……

私は彼の苦しみに気づくこともなく、私たちには変わらぬ未来があることを信じて疑わなかった。

二人でいる時も暗い表情が多かったのに、仕事の疲れがあるのだろうくらいにしか思わなかった」



過去に意識を戻し、古い順に記憶を引き出しながら言葉を並べた。

丁寧に話したり、そうでなかったり、口調も定まらない。

過去の思いが蘇り、苦しみ、怒り、悲しみが折り重なり、複雑な感情が押し寄せる。

顔を歪ませ黙ってしまった私へ、浅見さんが静かに聞いてきた。



「婚約していらっしゃったんですか」


「いいえ……婚約していなくて良かったと、今は思うの……婚約解消は面倒ですもの」


「そうですね」



宗が経験したことに比べれば、私は辛くはない……そう自分に言い聞かせ話を続けた。



「彼が苦しい思いをしていることにも気づかない私は、自分の体にも無頓着で、体調の悪さもたいしたことはないと軽く考えていました。 

浅見さんならおわかりでしょうね」


「まさか……」


「気だるさが身体の苦痛に変わり、気を失って倒れたまでは覚えているけれど、出血したと聞いたのは運ばれた病院のベッドの上だったわ。

ごく初期の流産だったのでしょう……という診断でした」


「……そんな」



浅見さんの顔が悲痛でゆがみ、私を見る目が潤んできた。

流産だったのでしょうという曖昧な診断は、初期の妊娠の可能性もあるが、そうでなかったかもしれないというものだ。

月経の乱れともいえる症状に 「流産に気がつかない人も多いですね」 と医師の説明だった。

それを裏付けるように、私の体はほどなく回復した。

体は回復したが心は大きく乱れた。



「流産だったかもしれないと聞いた彼は、急に現実が見えたのでしょうね。

私を見舞った彼の青ざめた顔を、今でもはっきり覚えています。

私の体を気遣う言葉もなく、ただ立ち尽くして……

それまでも、期待に応えなければと必死だったのに、家族を背負わなければならないという重圧が彼を襲ったんですから」


「女はいつも現実を見ています。でも男性は、そうではないようですね」


「そうみたい。それからまもなくだった、彼から別れの言葉が告げられたわ。 

自分には無理だ、責任がもてないと言われて……私の前から消えた」


「消えたって……」


「会社へ辞表が出されたあと、行方がわからなくなったの。

私は、彼から存在そのものを否定されたと思ったわ。 

黙っていなくなったのよ、もういらないって言われたようなものですものね。

だからね、わかるの、あのときの浅見さんのお気持ちが……手に取るようにわかったの」



肩を震わせて泣く浅見さんを見ながら、私も当時を思い出し感情の揺れがあったが、それもほんのいっとき。

そのあとに訪れたのは、凪いだような心の落ち着きだった。

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