ボレロ - 第三楽章 -
マンションが用意され部屋の準備が完璧であったのは、私が家を出ることになるだろうと、浅見さんがあらかじめ予想していたということ。
私はこの上なく心強い味方を得たことになる。
私も紗妃も家を出たのだと告げると、それは大変ですねと言いながら笑みを見せた。
思わぬ展開になったが、それを楽しんでいるようだ。
「では、早急の解決が必要ですね。
私にできることでしたらお手伝いさせていただきま。なんなりとおっしゃってください」
「ありがとうございます。お力をお借りしますね」
「はい。さっそくですが……」
私たちは前に進むだけ、迷っている時間はない。
父は私を須藤の家から出すつもりはないと言い、私は家は継ぐが父の言いなりになるつもりはないと言った。
年末に父とかわした会話が、今朝また繰り返され 「親を脅すつもりか」 の父の言葉まで同じだった。
あの時は家を出るつもりはなかったが、父の真意が見えた今、待っていてもなにもかわらないのだとの思いが強い。
その夜のシンデレラコールを、私は新しい部屋で受け取った。
「どこにいるの?」 というのが、宗の第一声だった。
『家を出ると聞いたから、俺のマンションに来るんだとばかり思っていた。
君のお母さんから電話をもらったが、ここにいないと伝えたら驚かれた。行き先を言ってないのか』
『誰にも言わずに家を出たの。でも、誰もが宗のところに行くと思っていたでしょうね。あなたもね』
『それで、どこにいるんだ』
『いまはまだ教えられない』
『どうして』
『父に私の行動を知られたら、計画がだいなしだもの』
『俺が言うとでも思ったのか?』
『いいえ、知らないほうがいいと思っただけ。知っていたら、父に問い詰められるかもしれないでしょう?
もう少し待って』
『それまで会えないのか……』
『会いたくなったら、私から出かけていくわ』
『今夜会いたい』
『無理を言わないでよ』
『もう三日も会ってない。俺は会いたい、珠貴は会いたくないのか』
わざと困らせるように私へ無理を突きつける。
こんな時の彼は、鋼鉄の笑みはしまわれ無防備で無邪気な顔をしているはず。
そんな顔も見てみたいと思ったが、誘いにのっては私の負けだ。
優しい声でなだめるように語り掛けた。
『宗……』
『うん?』
『好きよ』
『知ってる……』
『あいかわらずね』
宗の優しさが伝わってくる夜だった。
今夜なら素直な気持ちで話ができそうな気がした。
浅見さんに話したように、彼にも話してみようと思った。
『このまま私の話を聞いて 黙って聞いてね』
『わかった』
浅見さんに話したように、ひとつひとつ思い出しながら言葉にして並べた。
長い長い私の話が終わっても、何の問いかけもなかった。
電話の向こうで聞いているはずなのに、宗からは息遣いすら聞こえてこない。
『……ずっと話そうと思ってたの……』
『珠貴……これから……』
『ごめんなさい。今夜は何も言わないで、お願いだから』
『会いたい』
会って、もっと詳しく話を聞かせてくれと言われたと思った。
でも、今夜はなにも話せそうにない。
『明日会いましょう。おやすみなさい』
『珠貴』
『宗、もう今夜は……』
『……愛してる……おやすみ』
電話が切られた音が聞こえてきたが、私はふわふわと浮いたような感覚に陥っていた。
五文字の言葉がリフレインして頭の中でこだまする。
彼の愛に満たされた体を起こし立ち上がると、部屋のクローゼットを開けた。
服を選び、着替え、メイクをし、髪をととのえる。
バッグを手に玄関を出て、ドアフックを動かし施錠を確認した。
エレベーターを待つのがもどかしく三階から駆け下りると、私は宗に会うために真夜中の街へ飛び出した。