ボレロ - 第三楽章 -
自分がふがいなく、無力を思い知らされ、珠貴の手首をつかむ手から力が抜けていく。
はずれかけた私の手を静かにほどいた珠貴は、一歩前へ踏み出し父親と向き合った。
「お父さまは、何もわかっていらっしゃらないのね……」
「なに?」
「女の子は手元に置いて守るとおっしゃいましたね。そのお相手はどんな方?
近衛家のみなさまのように、理解のある方ばかりではありませんのよ。
これから、宗一郎さんにどれほど負担をかけることになるのか……
お母さまの苦痛も増すばかりだわ」
「そんなことはない」
そのときだった 「奥さま、いかがなさいましたか」 と母の声が聞こえてきた。
須藤夫人の異変に気がついたのは母だった。
ご気分がすぐれないのではありませんかと、心配な問いかけが聞こえてくる。
「どうぞお座りになって」
「えぇ……」
母に勧められるまま茶碗に残っていた煎茶を口に含み、ふぅ……と小さくため息をついた。
駆け寄った須藤社長が心配そうに覗き込む。
「紀代子、体調が悪いのか」
「少し……でも、落ち着いてまいりましたので」
「どうぞお体を楽になさって」
母が休むようにと再三勧めるが、須藤夫人は聞き入れない。
青白い顔だったが呼吸を整えると、訴えるように須藤社長へ語りかけた。
「あなた……本当によろしいのですか。
このままでは、珠貴に一生辛い思いをさせることになるのですよ」
「なぜ珠貴が辛い思いをする」
「宗一郎さんに申し訳ないと思いながら過ごす人生を、これから歩ませるなんて……
珠貴がかわいそうです。私にはできません」
「なにを言う。そうならないように、宗一郎君に我が家に来てもらうんじゃないか」
「いいえ、自分のせいで宗一郎さんに我慢させてしまったと、この先ずっと後悔しながら過ごすでしょう。
私があなたに申し訳ないと思いながら過ごしてきたように、珠貴も同じ思いをするはずです」
「紀代子、そんなことを思っていたのか」
「あなたは娘に……私と同じ気持ちを……味あわせるおつもり……ですか」
最後の声は途切れ途切れになり、話すのも辛そうだった。
ここにいる誰もが言葉を失い、誰も異を唱えることができなかった。
夫人の深い思いを知らされ、須藤社長の顔は苦渋に満ちていた。
「奥さま、お話はそれまでになさってください」
「……近衛の奥さま、せっかくお気遣いくださいましたのに申し訳ありません」
「申し訳ないのは私どもです。余計なことを申しました……
お母さまがこのようなお気持ちでいらしたとは……」
夫人の声は掠れ顔色もかなり悪い。
須藤社長に抱えられた体がぐったりとしてきた。
珠貴が救急車を呼んだ方がいいのではないかと言うのに、夫人は大丈夫と繰り返している。
「宗さん、お医者様をお呼びして」
母の声に、思いついたのは沢渡さんだった。
本来なら須藤家の主治医を呼ぶべきだろうが、この時の私は友人の顔しか思いつかなかった。
すぐさま沢渡さんに電話をしてこちらの様子を伝えた。
『すぐに行く!』 と緊迫した声があり、ほどなく沢渡さんが駆けつけてきた。
「過度のストレスがかかったようですね。
話し合いは一時中断していただき、まずは安静に」
我々の顔ぶれから事情を察した沢渡さんの言葉に、みな黙ってうなずいた。