ボレロ - 第三楽章 -
「宗一郎君、これが私の答えです。
そして、私と君のお父上の気持ちでもあり、母親たちの願いでもあります」
ゆっくり表に向けられた紙は薄いものだった。
書面に目を通し、思わず息をのんだ。
『婚姻届』 と印字された紙が目の前に置かれていたのだ。
左半分は空白のままだが、右半分は記載済みである。
「証人」 の欄には 「近衛鷹彦」 「須藤孝一郎」 の署名と捺印があった。
驚き息もできない私へ、おもむろに声がかけられた。
「ペンを持っていますか」
「えっ、はい」
背広のポケットから取り出したペンを持った私に 「ここに印をしてください」 と告げる。
須藤社長が指で示した先の文字を見て体が震えた。
そこは 「婚姻後の夫婦の氏」 の欄で 指が示しているのは 「夫の氏」 の項目だった。
言われるままに震える手で印をつけた。
「宗一郎君が先に署名捺印して、珠貴に書かせてください。
あとは……これを一緒に役所に届ければ婚姻は認められます」
二人の父がそれぞれ出したのは、私と珠貴の戸籍謄本だった。
婚姻届には、戸籍抄本または戸籍謄本の添付が必要であること、本籍地は近衛家とし、二人の住所は宗一郎君の住まいでいいでしょう、など、入籍時の注意事項を聞かされるが耳に入ってこない。
「近衛さん、これで間違いありませんね」
「はい、よろしいかと」
淡々と進められるやり取りを聞きながら、私はまだ呆然としていた。
「明日、両家の顔合わせと内輪の式を行う。
婚姻届はその前に出しておくように、遅れるんじゃないぞ」
「あの、どこへ行けば」
「狩野君のホテルだ。榊ホテル東京 ”白檀の間” に11時」
「白檀の間……えっ」
狩野が必死に隠していたのは、こういうわけだったのか。
黙秘権を行使するといった友人の顔を思い出し胸が熱くなった。
「明日はすべての予定をキャンセルした。仕事は平岡君が調整してくれている」
「……彼女は、このことを知っているんですか」
「今ごろ、珠貴さんも母親二人から話を聞いているだろう。
おまえはこれから珠貴さんのところへ行きなさい。
二人で届けに署名をして、お母さんたちを安心させる。いいな」
「はい……」
「平岡君が外で待っている。行き先は彼に伝えてある」 と父の言葉が続いた。
狩野や平岡はすでに知っていたのだ。
すべてを知りながら、私に隠しつつ動いてくれていた。
ありがたい。
そして、三日間でここまで整えてくれた両家の両親に、感謝のほか言葉が見つからなかった。
「ありがとうございました」
二人の父親に頭を下げた。
早く行きなさいと促され部屋を出たが、まもなく、父が追いかけてきた。
「婚姻届の証人の欄に、先に名前を書いてくださったのは珠貴さんのお父さんだ。
お気持ちを受け取るように……」
素早く告げられた。
部屋へ戻る父の背中が滲んで見えた。
目の潤みを必死に隠しながら、半ば小走りで玄関外へと向かった。