ボレロ - 第三楽章 -


後部座席に落ち着いた私へ、平岡がルームミラー越しに 「準備はよろしいでしょうか」 と
シートベルトの確認を尋ねてきた。

彼のかしこまった声に、うん……と小さくうなずくと、ほどなく車は走り出した。

車内の会話はなくエンジン音だけが響いている。

ルームミラーに映る平岡の顔は真っ直ぐ前を向き、話しかけてくる気配はない。

私が車に乗り込んだのだから、首尾よくことが進んだと彼もわかっているのだろうが、感極まったまま気持ちがまだ落ち着かない状態でもあり、この静けさはありがたかった。


街中を走るうちに見慣れた景色が見えてきた。

車は間違いなく私のマンションへ向かっている。

珠貴たちが待っているのは私の自宅マンションだろうと思っていたが、車はマンション前を通り過ぎ、ひとつ先の通りへと入り数十メートル先で停車した。



「ここは?」


「珠貴さんの部屋があるマンションです」


「こんなに近くにいたのか……」


「灯台下暗しですね」


「平岡は知っていたのか」


「えぇ、まぁ……」


「よくも黙ってたな」


「蒔絵に口止めされていましたから」


「蒔絵さんに?」


「行けばわかりますよ」
 


そこは、私の自宅マンションの東側に位置しており、距離にして三百メートルもない。

こんな近くに仮住まいがあったとは……

珠貴が電話のあと、それほど時間をおかずにやって来たのもうなずけるというものだ。

こちらですと促され、階段で三階へのぼる。

他の居住者と顔を合わせたくなければ、階段が便利ですよと平岡が説明した。


インターホンで到着を告げると 「みなさまお待ちです」 と蒔絵さんがにこやかに出迎えてくれた。

珠貴が飛び出してくるのではないかとの期待がはずれ、少々気落ちしながら中に入ると、玄関に並べられた靴の数に驚いた。

いったい何人集まっているのだろう。

緊張の面持ちで廊下を進む蒔絵さんに続いた。


蒔絵さんの手でリビングに通じるドアが開けられると、部屋にいた全員の視線が集まり一瞬たじろいだ。 

待ってたぞ、いらっしゃい、など口々に言われ、私の方が客人扱いだ。

母親たちと珠貴だけがいるものと思っていたのに大勢に迎えられ面食らったが、その中に珠貴の顔が見え思わず笑みが浮かんだ。 

どちらも言葉はなかったが、絡ませた視線で言いたいことの半分は伝わったはずだ。


見知った顔ばかりでもあり、それぞれに声をかけて奥へと進む。

ドア近くの椅子に腰掛けているのは漆原さんだ。



「明日は写真だけ撮らせてもらいます。原稿はほとんどできてます。

あとでチェックをお願いします」


「わかりました」

 

テーブルの手前では、狩野、浜尾君、浅見君、櫻井君が打ち合わせの最中だった。



「明日は、珠貴さんと時間差でホテルに来てもらう。

近衛のマンションには、櫻井君と浜尾さんが迎えに行く。

ホテルに着いたら三人で入って来い。複数なら怪しまれない」


「誰が怪しむんだ」


「マスコミだよ。いくら嬉しい日でも、顔をニヤつかせて来るなよ」


「そんな顔をするか」



からかわれているとわかっていながら狩野を睨みつけ、櫻井君と浜尾君に 「よろしく」 と伝えた。

珠貴は浅見君と一緒にホテルに入るそうだ。

浅見君にも 「彼女をお願いします」 と頼み、それから珠貴に声をかけようとして蒔絵さんに呼び止められた。



「すみません、先にサイズの確認を願いします」


「サイズ?」



「失礼いたします」 と言ったとたん蒔絵さんに左手を握られた。

彼女はリングが連なった金具を持ち、その中のひとつを私の指に器用にはめた。



「思ったとおりピッタリだわ。よかった」


「これは?」



聞かずとも見ればわかることだが、黙っていることに耐えられず口が開いた。



「お式までには必ずお届けいたします。では、私は先に失礼します」


「彼女を送っていくので僕もこれで失礼します。先輩、明日は頑張ってくださいね」



何を頑張れと言うのだろう。 

わけのわからぬ応援のあと、平岡は蒔絵さんとともに足早に立ち去った。


< 249 / 349 >

この作品をシェア

pagetop