ボレロ - 第三楽章 -
式までに間に合わせると言っていたが 私の指にもそれがはめられるのか。
まさか……と疑いながら自分の左手を見た。
私の分はいいから、珠貴の指輪だけ先に届けて欲しいといえば良かったと今ごろ思いついた。
指輪は間に合わないのではないかと言っていたが、結歌さんが蒔絵さんに頼んでくれたのだろう。
指輪だけではなく、私の知らないところでいろんな準備が進んでいた。
「宗さん、こちらへ」
背中からかけられた母の声に反射的に振り向いた。
「ありがとうございました」 と二人の母親へ、さまざまな思いを込めて頭を下げた。
「良かったわね」 と母から言葉があり 「はい」 とだけ返事をした。
私が選んだ相手なら賛成だと言い、ずっと見守り支えてくれた母と、難しい条件の中で娘を託すと言ってくれた珠貴の母を、ようやく安心させることができる。
父親たちの前では感極まったが、母親二人の顔を見て喜びの実感がわいてきた。
嬉しそうな珠貴が私を見る、私も彼女に微笑みを返した。
狩野が言うようにニヤけているつもりはないが、顔がほころんでしまうようだ。
意識して顔を引き締め、空いた椅子に腰を下ろした。
「式は佐保が担当する。極秘挙式だから、ほかのスタッフに任せるより安心だろう。
ご両親の意向をお聞きして大方は決まったが、近衛の要望があれば佐保に言ってくれ」
横から狩野が声をかけてきた。
極秘挙式とは大げさだが、マスコミの興味本位の目は警戒したい。
友人夫婦の協力は本当にありがたい。
佐保さんは育児休暇中だと聞いていたが、その佐保さんがここにいるのは私たちのために他ならない。
「明日のお式はこのようになっております……」
タイムテーブルに添って佐保さんが順序良く説明していく。
打ち合わせがすんだ狩野たちも近づき、佐保さんの話に耳をかたむける。
「これで万全だな。では明日、みなさんよろしくお願いします」
中心となって動いてくれた狩野の声にみながうなずき、彼らも退出した。
一人残った漆原さんが 「渾身の記事ですよ」 と自信たっぷりの顔で近づいてきた。
手渡された記事原稿に珠貴と一緒に目を通す。
なるほど彼の言葉は本当だ、折々で彼に話してきたことが端的にまとめられていた。
「式のあと写真を撮らせてもらいます。じゃぁ、明日」
人懐っこい顔で別れを告げ、漆原さんも帰っていった。
友人たちが去った部屋は急に静かになり、いまさらながらここへ来た目的を思い出した。
母親と珠貴の前に 『婚姻届』 を広げて見せると、三人の口からため息が漏れた。
ペンを取り出し三人が見つめる中、まずは私が書くべき項目を埋め、書き終えると珠貴に
用紙を渡した。
私から受け取ったペンで珠貴も自分の欄を書いていく。
最後に捺印し書類が整うと、またため息が漏れた。
「これで安心いたしました」
「えぇ、本当に……」
感慨深く婚姻届を見つめる母親の顔に、先ほど父親たちとかわした話を語って聞かせた。
話の途中から涙を隠せなくなったのは珠貴の母親で、母も潤んだ目をしきりにハンカチで押さえている。
珠貴だけは、私の話が終わるまでじっと聞き入っていた。
「宗さん、明日は忘れずに届けてくださいね」
「はい」
明日はあなたも宗一郎さんと行きなさいと娘に伝えると、須藤夫人は母と一緒に帰っていった。
母親たちを見送ったあとの部屋は、暖かな幸福が満ちていた。
珠貴……と呼ぶ。
待っていたように珠貴が胸に飛びこんできた。
互いの体をきつく抱き、胸のぬくもりを伝え合い、気持ちを溶け合わせていく。
抱きしめながら頬を寄せ、鼻先を合わせ、肌に触れながら、そばにいるのだと確かめあった。
何度となく抱く手に力を入れ、奇跡のような今日の出来事を体に刻みこんだ。