ボレロ - 第三楽章 -
「コーヒー、いい香りね。宗に朝食の準備をしてもらうなんて幸せ」
「たいしたものは作れないよ。ひろさんが食材を準備してくれるから、熱を加えるだけだよ」
「それでも用意してもらったんだもの、ありがとう……明日はちゃんと起きるわね」
「疲れが残ってるんじゃないか? 挨拶回りで気を遣っただろう」
「宗も同じでしょう。それにしてもたくさんの方にお会いしたわね」
婚姻届一枚で私の生活は一変した。
結婚した翌日から数日は挨拶回りに忙殺された。
親族への挨拶は両家の両親の意向でもあり 「あとで知らされるより、先に知らせた方が良いから」 と、もっともな意見だった。
「二人そろって挨拶に来てくれた、それだけで相手の気持ちは和らぐものです。
大変でも、これだけはやっておきなさい」
とは母が言ってくれた言葉で、急な入籍にはそれなりの理由が必要であり、知弘さんと静夏ちゃんの結婚式に夫婦として出席するために入籍を早めたのだと説明すれば、みなさん納得してくださいますと知恵も授けてくれた。
両家の両親があらかじめ親族や関係者に話してくれていたこともあり、行く先々でとやかく言われることはなかったものの 「披露宴を楽しみにしていますよ」 の言葉は誰の口からも聞かれた。
「披露宴ってのは、案外理にかなっているのかもしれないね。向こうから来てくれるんだ。挨拶も一度で済む」
「そうね。私たち、簡素化したつもりで、実はとっても面倒なことをしているのかもしれないわ」
ははっ、その通りだと宗が笑う。
私の誕生日までに入籍したいと宣言した彼は言葉どおりに実行し、入籍後、家族だけの式を行ったが、翌日から、結婚に付随する雑事に終われる毎日をすごすことになった。
宗が言ったように披露宴に皆さんをお招きした方が楽だったと、いまさらながら思う。
婚約もなく、いきなり入籍しましたと発表したこともあるが、周囲の驚きは私の想像を超えたものだった。
入籍したと知るや誰もが 「結婚式は?」 と聞いてくる。
内輪の式を挙げました……と伝えると 「そうですか」 と言いながらも困惑した表情を見せ、入籍を急がなければならない事情があったのだろうかと、詮索する顔が私へ向けられた。
オメデタですか? と聞いてきた人へ 「いいえ」 と返事をすると、ではなぜ? ともっと複雑な顔になるのだった。
そのたびに親族へ話したように、妹の結婚式にそろって出席するために……と宗が説明した。
けれど、漆原さんの記事が雑誌に掲載されると、すべての説明はいらなくなった。
漆原さんのインタビュー記事は素晴らしいものだった。
「家族だけの式」 と書かれた項目には、両親と兄弟に見守られ荘厳な気持ちになったと、私たちの素直な思いが綴られていた。
家族が見守る中行われた結婚式は厳かだった。
このような式こそが、婚礼における本来あるべき姿だと父が言ってくれたのも嬉しいことだった。
記事の中に 「彼女の誕生日までに結婚したかったので」 との宗の言葉があり、読んでくださった方に好意的に受け止められ、宗の評価がアップしたのはいうまでもない。
けれど、嬉しい出来事の後に、こんな大変さが待っていたのは予想外だ。
宗と結婚して 「近衛姓」 に変わることをあれほど願っていたはずなのに、「結婚による姓の変更」 の手続きは膨大な量で、各方面から取り寄せた書類を前にため息が出た。
毎日書類と格闘する私を見て、
「苗字が変わるってのは大変なんだね。須藤姓にならなくて良かったとつくづく思うよ」
宗が正直な感想をもらした。
私が 「近衛珠貴」 になるための手続きはしばらく続きそうだ。