ボレロ - 第三楽章 -
知弘さんの口が開き、私たちが最も知りたい情報が言葉になろうとした瞬間、
それを邪魔するようにデスクの電話が鳴り響き、身構えた姿勢をといた浅見
さんが冷静な声で対応した。
「香取可南子さまが、ただいまおつきになりました」
「約束の時刻まで、まだ一時間もあるじゃないか。
君たちと顔をあわすことのないように時間をずらしたのに、
相変わらずせっかちな人だ」
「専務は来客中ですと、お伝えいたしましょうか」
「待たせると機嫌が悪いな……ゆっくり来るように言ってくれないか」
「それでは、私がお迎えに行ってまいります。
こちらへゆっくりご案内いたしますので」
そういうと、浅見さんは堂本さんを見た。
彼は席をはずした方がいいのではないかと、その目が気遣っている。
「君がここにいるのはまずいな……
しばらく隣りの小会議室で待っていてくれないか。
こちらの話し声は聞こえるはずだ。姉の口がすべてを語ってくれるだろう、
息をひそめて聞き耳をたててくれよ」
「はい、ではそちらで待機いたします」
「私もご一緒してもいいかしら、可南子叔母さまって苦手なの」
「ふっ、私も可南子姉さんは苦手だ。
一緒に隠れたいくらいだが、そうもいかないからね。
会議室に入ったら念のために内側から施錠したほうがいいな。
姉は勘の鋭いところがあるからね。
何かを察して会議室のドアをあけるかもしれない」
ドア一枚で隔てられた小会議室に、私と堂本さんは移った。
彼と一室に身を寄せる息苦しさはあるが、苦手な可南子叔母と顔をあわせるよ
りもいい。
堂本さんが椅子をドアのそばに置き、どうぞと私に勧めてきた。
左側に置かれた椅子に腰掛けようとして 「こちらに……」 と右側の椅子に
座るように言われた。
「すみません。左側は……」
「あっ、ごめんなさい」
「いいえ」
幼い頃の病気で、彼の左目の視力はほとんどない。
そうと知っていたのに、難なく振舞う彼の姿に失念していた。
私が堂本さんと初めて会ったのは、彼が知弘さんの仕事を手伝うようになって
まもない頃だった。
ヨーロッパへ視察を兼ねた出張があり、出向く先の地理に不案内な私のため
に、知弘さんの指示でガイドとして私に同行したのが堂本さんだった。
そのとき、足元の段差に往生している彼に疑問を持った私へ、身体の不自由さ
を話してくれたのだった。
片側の目だけでは距離の感覚が曖昧であり、また、視力を失った側は感覚がつ
かみにくく、注意が行き届かないため、誰かに左に立たれるのは好まないの
だと……
不用意に彼のハンディを聞いてしまった思いが残り、それ以来、私は堂本さん
に踏み込めずにいる。