ボレロ - 第三楽章 -
今朝 自宅を出る私を呼び止めたのは 我が家の庭の管理をお願いしている造園家の北園さんだった
「女房が選んだものですが 味は間違いないですよ」 と照れた顔の北園さんから手渡された
和菓子の老舗の包みが ホワイトデーのプレゼントであると気がつくまで数秒かかった
宗からバレンタインデーのお返しがあるのだろうか ないのか……とあれほど気にしていたのに
今日がなんの日であったかを忘れていた
北園さんからの朝一番の思いがけないプレゼントで 気持ちのいい一日のスタートをきることができた
昼すぎ 打ち合わせから戻ると デスクの上に包みがおかれていた
そのパッケージは 私が贔屓にしているオーストリア菓子の専門店のもの
贈り主は知弘さん 「いつもありがとう」 とカードが添えられ 追伸として 「冬真の顔を見においで」 と
知弘さんの流れるような字に頬が緩んだ
夕方 海外ブランドのお披露目パーティーに出席するために出かけた 『榊ホテル東京』 の車寄せでは
すっと背筋を伸ばしたドアマンの宮野さんが私を迎えてくれた
「いらっしゃいませ」 といつものように迎えられ 「お帰りのお時間は……」 といつもと同じ会話のあと
宮野さんがコートの内ポケットから取り出した小さな包みを そっと私へ差し出した
「気持ちばかりですが……」 とささやくように告げると 何事もなかったようにホテルのドアへと私を案内した
「ありがとうございます」 とだけ伝えて 他のドアマンに見えないように包みをポケットにしまった
パーティーの終了後 会場から出てきた私を待っていたのは 姿勢の良い老齢の紳士だった
一瞬その人が誰であるのかわからず眩しそうな顔をしていると
「いつもありがとうございます スタッフを代表して私が参りました」 と柔らかい声がして ようやく気がついた
「シェフ特製のマカロンでございます どうぞ」 と丁寧に両手で差し出され 嬉しく頂戴した
羽田さんに 『シャンタン』 以外でお目にかかるのは初めてで 黒服ではない羽田さんはとにかく素敵だった
「このようにプレゼントをお渡しするのは なんと申しますか 胸がときめくものでございますね」 と
はにかんだお顔に 私までドキドキした
趣向を凝らしたお返しを眺め くださったみなさんのお顔を思い浮かべていたら ふんわりと幸せな気分に
包まれた
宗が忘れても こんなにたくさんの方の気持ちを頂いたのだから もうこだわるのはやめよう
と そんな風に考えてしまうのが 私がこだわっていることになるのだけれど……
それにしても 彼はなぜこのような場所を指定したのだろう
住所を検索したが 明記された名称の施設の表示がない
ということは ごく新しくできた場所であるようだ
位置の確認をすると 湾岸を抜けそれから山手へ入り込む道をしばらく走ることになりそうだ
行き着いた先には何があるのか 『レ・ジュール』 の名称だけでは皆目見当がつかない
話をするだけなら彼のマンションか 狩野さんのホテルにある副社長専用の部屋でもよいのに
わざわざ それも 「一人で来るように」 と指示のうえ呼び出したのは それなりの理由があるはずだ
ハンドルを握りながら私なりに理由を考えた
まず考えられるのは 私と接触するのを誰にも知られないためではないかということ
もうひとつ 誰かを私に紹介するために呼び出したと考えられる
その人物も 私との接触を知られたくないのかもしれない
いずれにしても 深夜近くの密会となることから よほど緊迫した事態が迫っていると考えられる
どんな事態が私を待っているのだろうか……
いつもなら 目的地に向かいながら宗に会える高揚感に包まれるが 今夜はそれがまったくない
山手へとハンドルを切り 外灯の少なくなった道をひた走る
水面に見えていた月も山陰に隠れ 闇が広がった分だけ緊張感が増してきた