ボレロ - 第三楽章 -


「あのね……岡部さんに会ったの」 


「どこで!」


「学校の帰りよ。お友達と歩いてたら ”紗妃ちゃん” って声をかけられて、 

岡部さんの顔は覚えてたから、すぐにわかったけど」


「それでどうしたの」


「ちょっと話をして、お姉さん大変だねって、珠貴ちゃんの心配をしてた。

でね、聞かれたの……」


「何を聞かれたの」


「相手は近衛さんなのかなって。そう聞かれたわ……

言っちゃいけないと思ったのよ。だから黙ってた。 

違うって言うのもヘンでしょう。そしたら、うん、わかったって」 
  

「真一さん、わかったって言ったのね」


「やっぱり話をしたのはまずかったよね……珠貴ちゃんごめんね」


「謝ることないわ。あなたが悪いわけじゃないでしょう」


「だけど、気になって……それでね、岡部さん、いま都内の

なんとかソウケンにいるんだって。 

えーっと……思い出すから待って……そうだ! アリマソウケン。

ねぇ、ソウケンってなぁに?」


「有馬総合研究所、ふつうは総研と呼ばれるの。

企業分析やコンサルティングをおこなってるわ。真一さんが有馬総研に……」



可南子叔母が信頼する企業アナリスト有馬氏の会社に、岡部真一が在籍して

いる。

これは何を意味するのか……

真一さんが仕組んだ事なの?

いえ、彼にそんなことをする理由がないわ。

さまざまな思いが交錯し、整理のつかなくなった思考は深く大きな淵へと迷い

込んでいた。







その夜の宗の電話は、ミニチュアが届いただろうかと確認するもので 

『今日は変わった事はないよ。残念なのは君に会えなかったことくらいかな』 

と私を癒す言葉を告げてくれる。

宗へプレゼントの礼は伝えられたのに、岡部真一と有馬氏のつながりを話すこと

はできなかった。




数日後、大事なお客様へお品物を届けた帰り道、デザイナーの蒔絵さんとラン

チをとるため、ホテルのラウンジに入った。

その日も前島さんの運転する車で移動のスケジュールだったが、蒔絵さんと二

人の食事は、久しぶりに外で味わう開放感があった。

午後からこのホテルで会議があり、知弘さんとともに出席する事になっている。

知弘さんと秘書の浅見さんが到着するまで、あと一時間ほどあった。


ホテルロビーの小さなギャラリーの個展を見てから帰りますという蒔絵さんと

別れ、その時の私は一階フロアの奥まった化粧室へと向かっていた。

絨毯で足音が消される床を歩きながら 「珠貴」 と呼ぶ声を全身でとらえた。

弾かれたように振り向いた先に見覚えのある背中が見えたが、その背中はホテ

ルの大きな柱に身を隠し、ほどなく柱から手が差し出された。

”ここにいる、おいで” と私に合図を送っているようだ。


大きく脈打つ胸を押さえながら、私はゆるやかに歩き出した。


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