ボレロ - 第三楽章 -


結婚後も、紫子の生活は以前とたいして変わらない。

むしろ忙しさを増していた。

学校茶道の助手に加えて、カルチャークラブで短期講座の助手も頼まれた。

こちらは夜の講座のため、週に一回は夜遅く帰宅する。

紫子が終わる時間にあわせて、外で食事をすることも少なくなかった。


「忙しくて、テレビを見る暇もないわ」


口で言うほど不満ではなさそうだ。

少ない額だが講師料も入り、何より人に教えるのが楽しくて仕方ないといった様子だった。
 

「教えると自分の勉強にもなるの。教本を見ながら教えるわけにいかないでしょう?

だからきちんと予習をして、完全に頭に入れて、お教室に行くの。 

生徒さんの前では、さもなんでも知っているような顔で教えるのよ」


潤一郎の仕事は不規則で、帰宅時間も遅い。

結婚しても妻を一人で家に待たせるしかない。

寂しい思いをさせるのではと危惧を抱いていたが、そうでもなさそうだ。

紫子は自分の世界を持ち、自分の時間を上手に使うことの出来る女性だった。

決して夫に依存したりしない。

これは潤一郎にとって新しい発見だった。


「来年の春、カルチャークラブの生徒さん達が、講座終了のお茶会を開くの。

これからその準備に入るのだけど、考えただけで大変……」


大変、と楽しそうに口にする。

その日を境に日曜日も稽古が入るようになり、潤一郎は送り迎えを担当した。

紫子が稽古の間、近くの喫茶店にお気に入りの本を持ち込み、読書に没頭する。

日ごろ厳しい仕事に向き合う潤一郎にとって、ゆったりと静かな時間は癒しにもなる。

時計を見て紫子を迎えに行くと、背の高い男性が妻と親しげに話しているのが見えた。

その事実だけで動揺していることに、潤一郎は少なからず驚いた。

近づくと意外な人物だった。


「森川じゃないか」


「やぁ、やっと会えた。いつか会えるんじゃないかと思っていたが、あんがい時間がかかったな」


森川の言葉の意味をはかりかねて、潤一郎はいぶかしげな顔をしたが、紫子はもっと驚いたようである。


「遼先生、うちの主人をご存じでしたの?」 


紫子の 「うちの主人」 との言葉に照れくさい思いがしたが、悪い気はしない。

それと同時に、遼先生と呼ばれた森川に対して疑問がわいた。

三人の関係を把握しているのは森川は、余裕の顔である。


「ゆかちゃん、君のご主人とは大学時代に共通の友人がいてね、それで知ってるんだよ。

ゆかちゃんが近衛君と結婚したことはお袋から聞いていたから、いつか会えるだろうと楽しみにしていたんだ」


「まぁ、そうでしたの。どうして、いままで教えてくださらなかったの?

お聞きしていたら、もっと早くに主人を連れてきたのに」


楽しそうに内輪話をする二人を見ながら、潤一郎はある事に気がついた。


「ゆかの先生は森川さんだったね。彼は先生の息子か?」


やっと気がついたのか? そうみたいね、と森川と紫子が可笑しそうに笑っている。

僕から説明するよと森川が口をひらいた。

潤一郎と森川遼介は大学の同級生で、学部は違ったが共通の友人がおり、その友人の紹介で何度か飲んだことがあった。

滅法酒の強い友人で、酔いつぶれるまで飲まされたと懐かしそうに話をした。


「潤一郎さんも、わからなくなるまで酔うことがあるの? 信じられないわ……」


いつも冷静で、どんなときも取り乱したりしない潤一郎の姿しか知らない紫子にとって、森川の話はにわかには信じられない。


「俺は高田とは卒業してから一度も会っていない。会いたいな。

お前達は研究室に残っただろう、そのまま専門に進んだのか」


潤一郎の口から、俺だとかお前などどいう言葉を聞いたのは初めてだった。

夫の意外な一面を目にして、紫子は愉快な気分になってきた。

男二人は卒業後の報告に余念がない。

そして、「今度は高田を誘って飲みに行こう」 と約束ができたようだった。



「ゆかが、遼先生というのを何度も聞いたのに、森川のことだったのか。

気がつかなかったな」


妻が見知らぬ男と話していることが不機嫌だった潤一郎は、それが自分の友人とわかり気分も晴れて、帰りの車の中ではいつになくおしゃべりだった。 


「あいつは、学生の時から妙に落ち着きはらったヤツだった。

そうか、お茶の先生の息子だったとは、なるほど。お母さんの代理で教えられるんだってね。 

相当の腕前なんだろうね」


潤一郎の独り言はつづく。


「あの顔だからモテたらしいが、女の子に夢中になるタイプじゃなかったな。

女の子といるより男同士がいいと言っていた。男の付き合いを大切にするヤツでね。

あぁいうのを、男気があるって言うんだろうね。

高田は別格だけど、森川もかなりいける口だよ。

金属メーカーに勤務してると言っていたな。あいつのことだ、目的を持って入社したんだろう。

そのうち、大きな仕事をするヤツだと思うよ。

そうか、森川のお母さんがゆかの先生か。世間は狭いね」


滅多に人の話題を口にしない夫が友人について語るのを、紫子は珍しそうに見ていた。

この人の口から、かつてこんな話を聞いたことがあっただろうか。

潤一郎のことは、小さい頃から充分知りつくしていると思っていた。

結婚しても結婚前と別段変わらず、いつも物静かな夫である。

今日は、思っても見なかった一面をのぞくことが出来た。

新しい発見をしたと、紫子は嬉しくなった。

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