ボレロ - 第三楽章 -
ゆか……と呼び、手をとり膝に導いた。
「あら、どうしたの? ふふっ、甘えたいのかしら」
「ゆかをひとりにさせてばかりだ。マンションで待ってるのは寂しい?」
「いいえ」
妻は目を見て、きっぱりと否定した。
寂しいと言われても困るが、寂しくないとはっきり言われると、それはそれで複雑な思いがした。
「そうか……僕がいなくても、ゆかは寂しくないのか……」
潤一郎のやるせない声を聞き、紫子の目が大きく見開かれ、驚きの顔が潤一郎を見たが、やがて微笑みに変わった。
「そういう意味じゃないの。広いお屋敷で待つのは寂しいでしょう。でも、マンションで待つのは楽しいのよ」
「楽しいの?」
「えぇ、帰ってくる人を待つ楽しみ。潤一郎さんが帰ってくるのは、私のところだから」
「うん、僕はゆかに会いたくて帰ってくる」
「だから待てるの。そのときを楽しみに……」
紫子の手が潤一郎の頭を包み込む。
妻の胸に抱かれ、心地良さにしばし浸っていた潤一郎の耳に、木の葉の音が聞こえてきた。
「野鳥がいるのかな。木の葉が揺れてる」
「そうみたい。鳥や木や自然を感じるでしょう、ここが好きなの。だから他の別荘はいいの。ここだけで……それに……」
「それに?」
顔を上げた潤一郎は、紫子の頬が染まっていることに気がついた。
あぁ そうか ここは……と、ひとりごちる。
木立の葉のささやきは、二人の大事な思い出に重なっている。
夏のあの日、ここで初めて互いのすべてを知った。
青々とした葉の色と、紫子の白い肌が潤一郎の目の奥によみがえる。
何年たったいまでも、恥じらいを忘れない妻が可愛く見えた。
仄かに上気した頬に顔を寄せて、妻をからかう言葉を口にした。
「あのときのゆかは大胆だったな。僕を誘ったんだから」
「やだっ……忘れて」
「忘れない」
意地悪く抱きしめた腕の中から抜け出せないとわかっていながら、紫子は大げさに抵抗する。
甘い時間を共有する夫婦の決まりごとのように……
「あっ、お兄さまたち、もうすぐいらっしゃるわ」
急に思い出したようにいうと、潤一郎の膝からするりと降りた。
「ここに初めてお二人をお迎えするのよ。そうだわ、あのカップを……」
兄夫婦を迎えるための準備をはじめた紫子から甘い表情は消え、きりっと引き締まった顔にはベテランの妻の風格さえただよっている。
可愛い顔も、引き締まった顔も、夫だけが目にする妻の顔であり、甘えてくるのも、甘えさせてくれるのも、紫子だからできること。
祖父が選んだ相手に間違いはなかった、彼女で良かった……
結婚して数年たったいまでも、潤一郎は何度となく思う。
来客を伝えるベルが鳴る。
嬉しそうに玄関へ向かう背中を、潤一郎は微笑みながら見送った。
見つめる先に妻がいる喜びを感じる休日の午後、かさかさと木立のささやきが、また聞こえてきた。