ボレロ - 第三楽章 -
森と湖の国へ
成田からヘルシンキまで、経由地によっては待ち時間も含めて20時間もかかるが、直行便なら10時間半で着く。
旅のルートとして潤一郎が選んだのは、日本の航空会社が運行する直行便だった。
ビジネスクラスのシートは快適で、就寝時フラットになるシートは寝返りができるほど広く、プライベート空間も確保されている。
長時間のフライトはハイクラスシートに座るべきだ、というのが潤一郎の考えで、移動の疲れを残さないためにもフラットシートは欠かせないという。
「長時間のフライトといえばリオかしら。丸一日かかるわ。南米へはファーストクラス?」
「もちろん。ハイクラスのシートは疲れない、快適だよ。到着後、すぐに行動できる」
時間を有効に使うためだと言う潤一郎の考えに無駄はない。
でも、と紫子は思った。
今回の行き先は、南米ではなくヨーロッパだ。
ゆとりがないわけではないが、家計を預かる主婦としては 「もったいない」 の思いが先に立ち、他の航空会社なら、もっと運賃を抑えられるのにと思うが、そのまま言葉にしては角が立つ。
「成田からヘルシンキまで10時間半、パリへ飛ぶより短いわね。少し遠回りでも良かったのよ」
「直行便だからエコノミーでも良かったと思ってる? ヘルシンキまで乗り継いで行く方法もあるよ。そっちのほうが格安だね。だけど、トランジットを忘れてない? 結構な長旅だよ」
「あっ……そうでした。もっと北に行くのね、わたしたち」
「ラップランド、北極圏だ。現地に確認したら、オーロラが見える確率は高いそうだ。期待していいよ」
「そのために行くんですもの、絶対に見るわ」
「ゆか、絶対という言葉は、人間の終わりにのみ使っていい言葉だよ。見られるか見られないか、時の運だ。僕らの幸運を願うしかない」
不確実な言葉は、決して口にしないのが潤一郎だ。
そして、紫子はどんなことがあっても潤一郎の言葉を信じてきた。
確率が高いと潤一郎は言った、それは、限りなく 「絶対」 に近いことを意味している。
大空に広がるオーロラを見るために、ふたりはフィンランドへ旅立った。
ヘルシンキ空港に到着後、トランジットで少々の待ち時間をへて、イヴァロ空港まで一時間半の空の旅が続く。
降り立った空港は、一面氷の世界だった。
「手袋を持ってるね。素手でポールを触ると張り付くよ」
氷の粒に触れようとしていた紫子は、慌てて手を引っ込めた。
バッグの中から手袋を出そうと探るが、どこにいったのか見当たらない。
スーツケースに入れちゃったのかしら……と首をかしげる紫子の手を潤一郎が握り締め、そのままコートのポケットに入れて歩き出した。
「これからどうするの? バス乗り場があるわね。ホテルまでバス?」
「先に着いてるはずだけど……あっ、いた。こっちだよ」
「ガイド?」
「いや、友人だよ。案内を頼んだら、快く引き受けてくれた」
「フィンランドにお友だち?」
「うん、仕事でちょっとね。ここです、大貫さん」
旅の日程はおおまかに把握しているが、どこに泊まるのか、現地ではどうするのか、潤一郎に任せていたため、詳細はわからない。
日本語で呼びかけた潤一郎に紫子は驚いた。
日本人は世界中どこにでもいるが、北極圏に夫の友人がいるとは知らなかった。
始終海外へ飛び出して仕事をしている夫である、辺鄙な土地にも行っているらしいと、これは従兄弟でICPOに赴任している籐矢から聞いたことだ。
潤一郎自身は、仕事について語ることはほとんどない。
紫子が知らないことばかりであるから、北の地方に友人がいてもおかしくはないのだが、駐車場から歩み寄る彼を待つ潤一郎の様子から、かなり親しく接しているのだろうと紫子は感じていた。
「大型コンピューターが熱を出すことを知ってる?」
「えっ? えぇ」
「温暖な地域では、冷却に膨大なエネルギーが必要になる」
「わかった。ここなら寒いからエネルギー効率がいいのね」
「そういうこと」
データを保管する会社があり、大貫はそこに勤務しているのだと、潤一郎はわかりやすく説明した。