ボレロ - 第三楽章 -
パウダールームの明かりが私の肌を照らし出す。
体の火照りは静まったと思っていたのに、まだ赤味の差した肌が鏡の中に
あった。
染まった頬にくわえ艶やかに潤う肌は、彼との時間がもたらしたものだ。
ファンデーションをのせる程度では隠せないほど、私の肌は変化していた。
”俺に会ったと、誰にも言ってはいけない”
”わかったわ……”
約束したのだから、彼と会った痕跡を隠さなくては。
知弘さんとの待ち合わせの時刻が迫っていたが、たとえその場に遅れることに
なっても、彼と会った気配を消さなければと思った。
このホテルにはフィッティングルームを兼ねた個室のパウダールームがあり、
メイク道具はもちろん、パーティーにのぞむ準備ができるだけの内容が充実し
ている。
個室は華やかな内装が施され、備えられたブランドのアメニティグッズは女性
客には嬉しいものだった。
クレンジングジェルを肌にのばし、室内に設けられた洗面台で今朝ほどこした
メイクを完全に洗い流した。
素顔を鏡に向けると、鏡の中の顔は光り輝き潤っていた。
”肌はなんて正直なのかしら……”
触れ合ったあとの肌の変化に驚きながら、瑞々しく潤った顔にローションを
おく。
瞬く間に水分が浸透していき、それは肌の調子が良好である証拠だった。
気持ちよくメイクがすすみ、唇にルージュをのせてすべての化粧を終えた。
鏡で全身をチェックしながら、襟元近くの赤く滲んだ肌に気がついた。
唇を襟元に押し当て強く吸い上げた時にもれた自分の声は、甘く切ない吐息を
含んだものだった。
我を忘れてはいけないと心のどこかで自制しながらも、むさぼるように肌に
キスを繰り返す彼の頭を抱え、短い逢瀬に抑えていた情熱を注いでいた。
朝夕の冷気を含んだ秋風をしのぐために持参したスカーフを首元にあしらい、
彼が残した印を隠し、もう一度鏡を見る。
角度を変え入念に確認したあと、化粧室から退出し待ち合わせの場所へと向
かった。
午後の会議は、ときとして眠気を誘うものだが、今日は高ぶった気持ちを持続
したままで、緊張が緩むことはなかった。
意欲的に意見を述べ、質問にも積極的に応じる。
「張り切っているね。顔が輝いてるよ」 と知弘さんに言われ、何か勘付かれ
たのかとドキリとしたが、「そうよ。頑張らなくちゃ」 と強気な返事をする
ことで熱にうかされた余韻を隠した。
これが、彼との時間を悟られないための必死の姿勢だとは、知弘さんも気がつ
かないだろう。
午後の会議のあと残業をこなし、帰宅したのは夜9時近くだった。
食事をとる暇もなかったが、あまり空腹を感じない。
疲れ果てた体を、このままベッドに横たえたい欲望にかられたが、翌日に疲れ
を残さないためにも入浴は欠かせないため、重い足を引きずるようにバス
ルームへと向かった。
手早くシャワーを浴び、ハーブオイルを落とした浴槽に体を沈めた。
立ち込めた香りが疲れた心身を癒していく。
バスルームで一日を振り返るのが、この頃の習慣になっていた。
今日出会ったさまざまな顔を思い出し、事柄を整理していくのだが、いつもな
ら時間にそって順序よく思い出すことができるのに、今日は思ようにいかない。
ひとりの男性の顔が、私の頭を占領していた。
強烈に刻まれた記憶を排除するのは難しいことだと悟り、目を閉じて彼と過ご
したホテルでの短い時間を回想した。