ボレロ - 第三楽章 -
庭のある家
大通りから二つ目の筋を折れ、目の前にあらわれた塀にそって進んでいくと、雰囲気のある数寄屋門にたどり着いた。
大屋根と格子戸の前まで来て歩みを止めた潤一郎に続き、紫子も立ち止った。
「あらためて見ると大きいな」
「そうね。何度もこの道を通っているのに、しっかり見たことはなかったわ」
「都会の中の昭和、いや、大正かな。ここだけ時代に取り残されたようだ」
数寄屋門には時代を経た重みと風格があった。
格子戸に手をかけ引き戸を開けた潤一郎は、目の前の景色に感嘆のため息を漏らした。
「踏み石か、風情があるね」
「街中とは思えないわ」
「うん、外の喧騒から切り離された空間だ。こっちが母屋、向こうが茶室だよ」
「車の音も聞こえなくなったわね。知らない場所に迷い込んだみたい」
「本当にそうかもしれないよ」
言葉を真に受けたわけではないだろうが、静けさに不安を感じたのか、紫子は潤一郎に体を寄せた。
ふたりは寄り添って踏み石を進んだ。
「ここが母屋だ。それにしても立派だな」
「敷地も建物も、どれほどの広さがあるの? 数字だけではわからないわ」
「中に入ってみよう。縁側からの眺めがいいそうだ。
顕親さんおススメの絶景ポイントらしい」
「おうちなのに絶景ポイントって、ふふっ、どんな景色が見えるのかしら。
楽しみになってきたわ」
母屋の外観に感心したふたりは家へと入った。
近衛家分家の最長老、近衛ゆき子が亡くなったのはひと月前のこと。
みなから 「近衛のおばあさま」 と呼ばれていた人は、今年百歳を迎えてますます元気と思われていたが、秋口にひいた風邪から寝込み、転がるように体調を崩し弱っていった。
達者な口も静かになり、一日中寝ているばかりになった。
それまで四六時中小言を口にしていた人が話さなくなり、そうなると寂しいものである。
子どもや孫がかわるがわる病室を訪れ声をかけ続けたが、とうとう言葉を発することなく最期を迎えたのだった。
潤一郎のもとに、分家の総代である近衛顕親 (あきちか) が訪ねてきたのは先週のこと、顕親は 「近衛のおばあさま」 の遺言を携えていた。
「潤一郎君に、祖母の別邸を引き継いでもらいたい」
「僕が? おばあさまの別邸を相続ですか」
「祖母は君のことを、ことのほか気にかけていたからね。
君に使って欲しいと思ったんだろう」
本家と分家、なにかと顔を合わせる機会は多く、分家の総代となった顕親は昔からよく知っていた。
気難しく口うるさい長老の話を面倒がらずに聞き、いつの時も穏やかで紳士である顕親を、潤一郎は好意を持って接していた。
顕親にそう言われ、迷いながらも示された登記簿に目を通した潤一郎は、土地建物の敷地および住所を見て仰天した。
都会の一等地が住所となっている家屋敷は、土地も相当な広さで建物の延べ面積もかなりのものであった。
「近衛のおばあさま」 こと、近衛ゆき子が自宅として使っていた本宅は、広大な敷地に部屋数も相当数を有する屋敷で、そちらは顕親が相続することが決まっているという。
では、別邸も分家の親族が相続すべきではないかと潤一郎が言うと、
「近衛本家の方に引き継いでもらいたいと願う祖母の思いを、受け取ってもらえませんか」
顕親は優しい笑みで、そう潤一郎へ返した。
遺言書はずっと前に書かれたもので、潤一郎へ譲ることは早くに決まっていたのだと、顕親は語った。
別邸は、分家筆頭が所有してきた屋敷で、主に接待に使われてきた。
必要なときにだけ屋敷を整え客を迎え、そのほかは手入れをしながら家屋敷を守ってきたのだと、顕親は家屋敷の歴史を語った。
そのため、便利の良い場所にあるのだと加えた。
「潤一郎君、いかように使ってもらってもかまわない。別宅でも、もちろん本宅でも」
ただし、ほかへ譲渡することだけは避けていただきたいと、このときばかりは顕親の言葉は強かった。
話を聞けば聞くほど潤一郎が相続する以外に選択肢はなさそうで、それでも迷いがあり、潤一郎は父に相談して意見を聞いた。
「せっかくだ、いただきなさい。好きなように使えばいいではないか。
自宅にどうだ、勤務先にも近いだろう」
楽観的な助言があった。
確かに勤務先には近い、が……
自宅はマンションがあり、ふたりが住むには広すぎるくらいだ。
いまさら庭のある、それも大きな屋敷に住むこともないと思うが、紫子の気持ちも確かめてみなければ、そう考え直して、紫子とともに家屋敷の見物に出かけることにしたのだった。
顕親の言った通り縁側からの眺めは素晴らしく、築山や庭石が配置された庭の向こうには池が見えた。
「庭に降りてみよう」
「お魚がいるかしら?」
「いないだろう。世話をする主が不在では、魚も餌に困るだろう」
沓脱石から庭に下りた潤一郎と紫子は、庭を散策しながら池に向かった。
ほら、なにもいないだろう……と言いかけた潤一郎の目の前に、スイッと魚が泳いできた。
「ほら、あそこにも泳いでるわ」
「いったい誰が管理しているんだろう」
「私どもが世話をしております」
背中からかけられた声に、二人は飛び上がらんばかりに驚いた。
振り向いた先には、初老の男が立っていた。