ボレロ - 第三楽章 -


執事の小原です、と名乗った男性は、庭の奥に設けられた腰を落ち着ける場所に潤一郎と紫子を案内した。

切り出したままの岩の形を生かしたテーブルの上には、いつの間に準備したのか茶菓の用意ができていた。

お茶をどうぞと二人に勧めたあと、小原は名刺を差し出した。



「近衛商事財務部におります小原でございます。こちらの財務管理を任されております」


「近衛潤一郎です、今日はよろしくお願いします。妻の紫子です」



紫子へ深く頭を下げた小原へ、潤一郎は落ち着いた顔で話しかけた。



「天然石のテーブルですね。こんなに大きなものは初めて見ました。海外産の石ですか」


「北欧から取り寄せた物と聞いております」



北欧と聞いて目を丸くした紫子へ 「値段も驚くほどの品だよ」 と耳うちした潤一郎は、その顔を小原に向けた。



「この屋敷には忍者がいるようですね」


「気がついていらっしゃいましたか。忍者とは、うまいことをおっしゃる」



小原の顔がふっと和み、「みな、お客様に気配を悟られることのないよう、心得て動いておりますので」 と続いた。

潤一郎は屋敷に入った時から人の気配を感じていた。

姿を隠してはいても、人が動く気配を消すことは困難である。

もっとも、それに気がついていたのは潤一郎だけで、紫子は屋敷内には誰もいないと思っていたようである。



「小原さんは、近衛のおばあさまの信頼の厚い方だったと、顕親さんから聞いています」


「おそれいります。

今日、潤一郎さまがこちらへおいでになると伺いまして、一同安堵いたしました」



小原は、潤一郎が別邸を引き継ぐことを承知したと思い込んでいるようである。

年齢は小原の方がずっと上であるが、言葉遣いはどこまでも丁寧で、近衛本家の潤一郎へ礼を尽くした対応がある。



「実は、まだ決めかねています。故人の形見の品を受け取るのとはわけが違う。

なにしろ、この屋敷ですから、慎重にもなります」



そういうと、潤一郎は庭を見回し、ジョギングができそうですねと笑ってみせた。

小原から言葉はなかったが、苦笑いしていた。



「家もふたりで住むには広すぎます。使わない部屋がほとんでしょうね」


「外国の方のおはなしですが、お城を自宅になさっているそうです。

財産である城に住むことは特権であり、代々城を引き継ぐ者の義務だとうかがったことがあります」


「特権と義務ですか……難しい問題ですね」


「義務と感じられることはないかと思いますが、まずはここの暮らしを体験なさってはいかがでしょう」


「体験ですか?」



思いがけない申し出に、潤一郎は紫子と顔を見合わせた。

精一杯お世話させていただきますと言われ、返事に困った潤一郎へ、紫子から意外な言葉があった。



「お部屋が広くて、お掃除のし甲斐がありそうですね」


「はい」



小原はなぜか嬉しそうで、よろしければ今夜からでもお泊りいただけますと言い出した。



「休暇も残っていることですから、潤一郎さん、どうかしら」


「そうだね……」



去年に続き、今年もオーロラを見るためのフィンランド旅行を計画していたが、「近衛のおばあさま」 の喪中で旅行は見合わせた。

休暇を取りやめることもできたが、せっかくとれた休暇をみすみす手放すのも残念で、かといってほかの予定もなく、無駄に二日間を過ごしてきた。

休暇はあと一週間残っているから時間はあるわねと、紫子はもうその気になっている。



「フィンランドの代わりに、国内旅行に行ったと思えばいいのよ」


「都内に旅行か……たしかにここは国内だ。かなり近場だけどね」


「そうね、でも、都会とは思えない静けさでしょう。

お屋敷は、由緒ある旅館にも負けるとも劣らない素晴らしさだわ」


「茶室もございます」


「お茶室も、よろしいのですか?」


「ぜひ。炭などご入り用でしたら、いつでもお申し付けください」



紫子の顔がパッと明るくなった。

茶室を使えると聞き、俄然その気になっている。



「そうだな。ゆかとゆっくりここで休暇を過ごそうか」


「いいの?」


「もう、そのつもりなんだろう? じゃぁ、決まりだ。

小原さん、これから帰って仕度をしてきます。 今夜からお世話になります」


「はい、お待ちしております。お食事など、ご希望がございましたら、なんなりと」



なんでもそろえてみせると、小原も紫子同様張り切っている。

出直してきます、のちほどあらためて家を案内してくださいと小原に伝え、潤一郎と紫子は 「近衛分家別邸」 をあとにした。


ふたりが再び別邸に戻ってきたのは夕方、日の傾く頃になっていた。

先ほどは誰もいなかった玄関前に数名が並び、潤一郎と紫子を迎えた。

夕食の前にお屋敷を案内させていただきますという小原について、屋敷の内外を歩いた。

どこも手入れの行き届き、趣のある屋敷だと潤一郎は思った。

紫子もそう感じているようであった。

ふたりをもてなす食事を心行くまで楽しんだあと、「夜のお庭もご覧ください」 と勧められ、再び庭を散策した。

遠くに都会の明かりを見る庭は静かで、贅沢な空間だった。

床に蕾の椿が飾られた寝室で目を覚ましたのは、明け方まだ暗いうちだった。

胸元に寄り添う紫子は、まだ深い眠りの中にいる。

今日は何をして過ごそうかと考えるが、潤一郎に特に予定はない。

紫子は茶室に足を運ぶつもりらしい、ついていくか。

そんなことを思いながら体を起こした。

障子を開け、縁側を抜けガラス戸を開ける。

とたんに冬の冷気が流れ込んできた。

淡い光が差し込み、少しずつ明るさをました朝日が昇るのが見えた。

冬の空に雲はなく、今日は晴天であるようだ。

後ろに気配を感じた直後、背中が温かさに包まれた。



「おはよう。起こしたね」


「うぅん、目が覚めたの。おはよう、いいお天気ね」



振り向いた潤一郎の頬へ、背伸びした紫子の唇が触れた。



「わっ、冷たい」


「今朝は冷えるからね。まだ起きるには早い」



おいで、と紫子の手をつかんだ潤一郎は引き返し、ぬくもりの残る寝具にもぐりこんだ。

互いに体を引き寄せ温めあう。

今日は何をして過ごそうか……

紫子の手に指を絡めながら、潤一郎はまた、今日の予定を考え始めた。


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