ボレロ - 第三楽章 -
しばらくぬくもりにくるまれていたが、すっきり目覚めたため寝ていられない。
潤一郎は起きて身支度を整えた。
「まだ7時前だ。ゆかはゆっくりしているといい」
「潤一郎さんは?」
「そうだな、新聞でも読むよ」
「じゃぁ、私も起きようかな」
寝ているのがもったいない気分なの、旅気分を楽しみましょうと言いながら、潤一郎に続いて身支度をはじめた。
フィンランド旅行を取りやめ残念に思っているだろうに、紫子からそのような言葉は聞かれない。
北欧旅行の代わりが別邸の体験になってしまったが、なんでも楽しもうとする姿勢が紫子からうかがえる。
無理にそうしているのではなく、前向きな気持ちのあらわれだった。
だから紫子といるときは楽しく心地良い時間を過ごせるのだと、潤一郎は妻の良さを再確認した。
旅先で早く目が覚めてしまうのは、寝具と枕に慣れないためであることが多いが、昨夜はそんなこともなくぐっすり眠ることができた。
快適な目覚めで、すこぶる体調が良い。
ふたりでそんなことを話しながら寝具を片付けるのも、また楽しい。
「床の間にお花が飾られて、障子から柔らかい光が差し込んで、広い縁側からお庭が見えて。
和室もいいわね。
でも、雰囲気はあるけれど、お布団よりベッドの方が楽かしら」
「そうだね、体に負担がかからないのはベッドだと言われている。
和室にベッドも悪くないんじゃないかな。旅館でも、和洋折衷の部屋があるだろう。
『吉祥』 もそうだよ」
「和風モダンにリノベーションしたら、過ごしやすいと思うけれど」
紫子は、移り住むことを前提にしており、その点において潤一郎より前向きだった。
別邸を譲渡することは避けてほしいと言われているが、リフォームやリノベーションは許されるのだろうか。
小原はその辺も心得ているだろう、今日にでも聞いてみよう、ことによっては専門家の話を聞いて……
と考えて、まだ真っ白なスケジュール帳に、潤一郎は予定をひとつ組み込んだ。
早起きでできた朝の時間を、潤一郎はたっぷり時間をかけて新聞を読み、紫子は庭の散策にあてた。
それから、自然を眺めながら朝食の膳に箸を運ぶ。
食堂から見える雑木林は初冬の風情で、食事の美味しさと木々の様子を口々に語り合い、夫婦の会話も弾んだ。
ときどき野鳥も飛んできて庭木にとまり、餌をついばみ、また飛び立っていく様子を見ることもできる。
「餌付けでもしているのですか」
「木の茂みに小さな餌箱を設置しております。
鳥も覚えているようで、降りてきて食べています。
ときには猫の襲撃にあったり、油断できないこともありますが」
「猫もいるんですか?」
「近所の飼い猫がやってきます。猫には塀も垣根も通用しませんので。
先代は猫がやってくることに寛容でしたが、お気になるのでしたらさっそく対策を講じます」
小原は、潤一郎を当代とみなしたような返答である。
「猫対策というと、塀に網でも張り巡らせますか。それでは庭の風情がなくなるでしょう。
野鳥も猫もそのままで。そのうちに力関係がハッキリするでしょうから」
「かしこまりました。では、そのようにいたします。
お食事中申し訳ございませんが、今日の予定をお伝えしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「本日は……」
小原が今日のスケジュールを読み上げる。
朝食後の屋敷周辺の案内にはじまり、夕食後の映画鑑賞まで、今日の予定が出来上がっていた。
屋敷の一部が半地下になっており、そこにはミニシアターがある。
「先代の趣味で作られた部屋ですが、お客様の評判も良く、みなさまよくシアターで映画などご覧になっていらっしゃいます」
「フィルムの上映も可能ですか」
「はい。ほかに、高画質映像画面、ロスレスの機器もございます」
高音質をロスレスと言った小原の言葉に潤一郎の目が輝いた。
解像度の高い4Kテレビの購入を近々考えていたのだが、ここには専用のホームシアターがあるのだ。
大画面高画質で見る映画は何がいいだろう。
朝食を口にしながら、潤一郎の気持ちは夜へと飛んでいた。
空白が目立つ潤一郎のスケジュール帳が、一気に埋まっていった。
リノベーション ・・・ 既存の建物に手を加え機能を向上させること
(壁紙を張り替えたりキッチンシステムを替えたり)
リフォーム ・・・ 老朽化した建物をに手を加え新しい状態にすること
(仕切りを外したり、部屋の機能を変える大きな工事)
4Kテレビ ・・・ フルハイビジョンの4倍の緻密な画素数で表示できるテレビ