ボレロ - 第三楽章 -


二日目は朝から重い空気が立ち込め、空は今にも雨が降り出しそうな雲に覆われていた。

案の定、朝食が終わる頃には雨が降りだし、潤一郎は今日の予定を変更せざるを得なくなった。

近所に個人所有の美術館があり、そこまで散歩がてら歩いていこうと予定していたのだが、あいにくの雨で中止を決めたのだった。

「お車をご用意いたしましょう」 と小原は当然の提案をしたが、潤一郎は穏やかに断った。



「今日はやめにします。明日でも明後日でも、休暇はまだ残っていますから」



家でのんびり、ゴロゴロ過ごしますと微笑む潤一郎へ、小原は 「はい」 とだけ返事をした。



「ゆかは友達と約束があるんだったね」


「でも、あなた一人になってしまうわね」



友人とランチの約束があり、潤一郎が美術館で過ごすあいだ紫子も出掛けるつもりでいたが、雨模様で予定が変った夫を残して出かけることを気にしている様子である。



「ゴロゴロ過ごすことに飽きたら、家の中を探検するよ。

まだまだ見るところはありそうだからね」


「いいの?」


「いいとも。食事の心配もいらないよ。昼も腕のいい料理長に期待しよう。

ということで、小原さん、予定変更で昼食もお願いします」



またも小原から 「はい」 と短い返事があった。



「買い物もあるんだろう? ゆっくりしておいで」


「ありがとう。夕方までには戻るわね」



機嫌よく出かける紫子を見送り、潤一郎は電子ブックリーダーを片手にリビングのソファに腰を降ろした。

ほどなく、コーヒーが運ばれてきた。

濃厚な風味を好む潤一郎のために淹れられコーヒーは、香りも色も深みがある。

ページを送る手を休め、カップを口に運び、「美味しいです」 と言葉をかけることを忘れない。

このとき、余計なことは言わず頭を下げただけの小原だったが、 



「いつも美味しいコーヒーをありがとうと、淹れてくれた人に伝えてください」



そう潤一郎が付け加えると、それはそれは嬉しそうな顔で 「ありがとうございます」 と礼があった。

別邸に来てからというもの、すべて潤一郎と紫子の予定に合わせ、ただの一度も 「申し訳ございませんが、いたしかねます」 と言われたことはない。

潤一郎たちの別邸への宿泊も当日に決まり、何日滞在するかも告げてはいない。

それでも、ふたりが何不自由なく過ごすことができるのは、別邸を任されている小原だけでなく裏方を努める者たちも、突然の予定変更にも臨機応変に対応できるからである。

潤一郎はこの点を高く評価していた。

そもそも別館は、近衛分家の当主が接待のために使っていた場所であり、別邸に務める者たちはもてなしを得意としている。

突然の訪問客があってもでも大丈夫ではないのか。

潤一郎は 「すみませんが」 と述べてから小原に頼みごとを伝えた。



「今夜、友人を呼びたいのでお願いできますか」


「おひとりさまでございますか」


「もしかしたら、二人になるかもしれません」


「承知いたしました」



こういうやり取りがあったあと、相手に電話をかけ 「今夜遊びに来ないか」 と誘うと 「これから行く」 と予定外の返事があった。

これからということは、すぐにでもやってくるということである。

慌てた潤一郎は、このときはじめて大きな声で小原を呼んだ。

走るように駆けつけた小原へ、今夜招くはずの人がこれからやってくることになった、おそらく夜までゆっくりしていくだろうから、昼食、夕食ともに準備を頼みますと伝え、「すみませんがお願いします」 と添えた。



「おまかせください。あの、潤一郎さま……」


「はい?」


「どうぞ、私どもに遠慮は無用に願います、ご要望はなんなりとお申し付けください」



すみませんが……と言う必要はないということである。

潤一郎は、この家の主になる心構えを教えられた思いがした。

インターホンに客の姿が見えたのは、電話から15分後のこと。

潤一郎は自ら玄関に立ち彼らを出迎えた。

客は一人ではなかった。



「早かったじゃないか」


「早いもなにも、隣だからな。走って来れば10分もかからない。



それに、ここは前から気になっていたんだよ。

まさか、近衛家の家とは思わなかった。潤一郎、黙ってたな」


「黙ってたわけじゃない。僕も知らなかったんだ。水穂さんも、いらっしゃい。

ふたりで来てくれて嬉しいよ」


「お邪魔します。気持ちだけですが」


「ありがとう。紫子が喜びます」



菓子の包みは最近人気の菓子店のもので、この近所に支店があり、紫子はざわざわ買いにでかけるほど贔屓にしている。

包みを受け取った潤一郎は、付き添って出迎えに出た小原にふたりを紹介した。



「神崎籐矢、紫子の従兄弟です。彼女は香坂水穂さん、籐矢のパートナー、でいいのかな?」


「ほかに言いようがないだろう」



怒ったように言い放つ籐矢へ、小原が恭しく頭を下げた。

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