ボレロ - 第三楽章 -


ようこそおいでくださいました、どうぞ、こちらへ……とふたりを案内するが、その顔が籐矢を気にしているようだと潤一郎は気がついた。



「小原さん、彼は道向こうのマンションの住人です。

現在はフランスに赴任中で、帰国したと聞いたので声をかけたら飛んできました」


「さようでございましたか。

あまりにもお早いお着きでしたので、不思議に思っておりました」


「僕は、彼のマンションにもよく来ていたので、以前からここを知っていました。

街中にある大きな屋敷は珍しいですから」


「昔は似たような家がいくつも立ち並んでおりましたが、時代とともになくなりました」



小原は懐かしそうに話しながらも寂しい表情だった。



「まさか、潤一郎が近所に住むとはね。それで、いつからここの住人になったんだ?」


「うん、それはこれから話す。今日はゆっくりできるんだろう?」


「そうだな、特に予定はない。水穂はどうする」


「私も、大丈夫です」



明後日リヨンに戻る、それまではフリーだという籐矢は、ここに泊まってもいいぞと言う潤一郎の誘いを受けるつもりになっていた。



「じゃぁ、決まりだな。小原さん、あとは頼みます」


「はい、承知いたしました」



潤一郎から手短に指示があり、小原から頼りになる力強い返事があった。

それからの時間は賑やかに過ぎていった。

夕方紫子が帰宅すると、思いがけない訪問客に大喜びし、夕食の席は明るい声に包まれた。

雨にもかかわらず、籐矢は水穂を引き連れて家屋敷の隅々まで見て回り、果てには家の奥方にまで顔をだし、「潤一郎の従兄弟です」 と挨拶をしていた。

屋敷の者は 「潤一郎さまの従兄弟の神崎さん」 と籐矢の名前と顔を覚え、のちにICP0勤務であることが知らされると、籐矢の印象は彼らの記憶のなかにしっかり刻み込まれたのだった。

屋敷の奥向きを務める人々にも会ってきた、プロフェッショナルな人が集まっているじゃないかと感心したよう話す様子に、給仕に出てきた女性が誇らしそうな表情を浮かべたのを潤一郎は見ていた。

屋敷に務める者はみな誇りを持って働いている、そう思えたのだ。

夜も更け、水穂は日付が変わる前に帰ったが、籐矢は残った。

あとは適当にやるからと小原に伝え、男二人は誰にも邪魔されず酒を酌み交わした。

紫子は 「付き合いきれません」 と言い残し、早々に寝室に引き上げていた。



「それで、どうする。ここに住むのか」


「そのつもりになってはいるが、紫子の意見を聞いてから答えを出そうと思う」


「セキュリティーは万全、猫は入って来られるが、人間は忍んでくることはできない。

分家の先代は何者だったんだ?」


「何者って、近衛の重役だった。それがどうした」


「気がついているか、部屋のいくつかは外側に面した窓がない。

接待の模様を知られないための配慮だと思うが」


「そう言えば……」



隠し部屋もあったぞ、カメラもわからないように仕掛けられている、角度から内部の監視ではなく、外部から侵入する不審者を見つけ出すためのものだと思われるが、と籐矢は続けた。

別邸の見学をしながら、家中を注意深く見てきた結果が潤一郎に伝えられた。



「別邸で、おおっぴらに客をもてなしていたわけじゃなさそうだ」


「分家の先代は、近衛の影の部分を担っていたということか」


「裏取引や談合、密談、そんなところだろう」


「なるほど……籐矢、そんなことを考えながら家中を見て歩いていたのか」



仕事柄、つい目がいくんだよ、水穂もセキュリティーを熱心に確認していたぞ、と笑っていたが、籐矢が真顔になった。



「潤一郎が家として住むのもいいが、近衛のために使うのも悪くないと、俺は思う」


「近衛のためか……籐矢らしくない言葉だな」


「水穂の前では言えないね。アイツは正義感の塊みたいなやつだからな。

先代がやってきた闇の仕事を潤一郎に勧めるとは、どういうつもりかと怒りだすのは目に見えている。

だが、俺はそれもありだと思う。世の中、綺麗ごとだけでは済まされない。

ここを潤一郎が引き継ぐことで、さっそく宗一郎の役にも立つだろう」


「うん。住む、住まないは別として、何かと役立ちそうだ。

水穂さんには聞かせられない話だね」


「一等地に建つ屋敷を、身内の会社のために役立てるなんて発想は、水穂にないよ」


「彼女は純粋だからね」



だから、籐矢は彼女を愛しいと思うのだろう、危険が伴ってもそばにおいているのではないか。

長年の友人の心を、潤一郎はそんな風に思った。

三日目、籐矢とともに遅い朝を迎えた潤一郎は、遅い朝食となった。

紫子は朝から茶室にこもっている。

指定席の椅子を籐矢に明け渡したあと、庭に出た潤一郎は裏木戸で犬を連れた小原に出くわした。

小原は木戸から突然出てきた潤一郎に驚いた様子で、いつもの落ち着きはない。



「小原さんの犬ですか?」


「……申し訳ありません」



いきなり謝る小原にびっくりしながら、リードをしきりに引っ張る犬を見た。

もしやと思ったより先に、実は……と小原が話をはじめた。



「実は、ゆき子大奥様からお預かりしておりました。
 
潤一郎さまにお話ししようと思いながら、話しそびれておりました」



それは昨年、潤一郎の元へ送りつけられた子犬だった。

潤一郎が送り返した犬を、小原が代わって育てていたものである。

子犬の頃は見えなかった水玉がくっきりと浮かび上がり、美しい模様を見せていた。



「この犬も、家にもれなくついてくるんですね」


「はい……」


「僕は飼い主になれるだろうか」


「ぜひお願いいたします」


「僕が代わりに散歩に行っても?」


「どうぞ」



小原からリードを受け取り、見事な水玉模様を持つダルメシアンに成長した体をなでながら、犬と向き合い、目を見つめた。

リードを引き歩き出した潤一郎は、ダルメシアンのオーナーになろうと決めていた。

紫子の反対はないだろう……

結婚以来喧嘩もなく、夫婦の絆は強い、潤一郎には絶対の自信があった。

冬の空はどこまでも青く澄みきっていた。



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