ボレロ - 第三楽章 -

音の記憶



「潤……ねぇ、潤」


「……待って」


「さっきから待ってるのに、いつ終わるの?」


「もう少し……」


「もう少しって、ウソばっかり」



待ちきれない手が首にしがみつき、耳に息を吹きかけ、私を誘惑する。

誘うしぐさに無反応でいると、さらに甘い誘いをかけてきた。

耳朶にふれた唇の感触に、体の奥がざわつき思考が乱れる。

動揺をひた隠しにして、大げさに顔をしかめた。



「はぁ……頼むよ。これ、今日中に終わらせなきゃ、君との時間も取れなくなる」


「わかった。バイオリン、弾いてもいい?」


「あぁ……」



やがて、背中から物悲しい旋律が聞こえてきた。

己が身を抱きたくなるような寂しい調べは、相手にされず沈む気持ちのあらわれか。

それとも、私の仕事の邪魔にならないための選曲だったのか……

本部への報告書をまとめる作業に没頭するうちに、バイオリンの調べは耳から遠のいていった。


ふいに、耳に音が戻ってきた。

さっきより、より鮮明な音が流れる部屋で目が覚めた。

いつ寝たのだろう、寝たつもりはないのだが、記憶が定かでない。

ともに夜を過ごしたあと帰ったか、それとも、私の仕事の終わりを待ち切れず、しびれを切らして帰ってしまったのか。

手をのばした先のシーツは冷たく、人のぬくもりは感じられなかった。

足音が近づいてきた。

なんだ、帰ってなかったのか、良かった、君を怒らせてしまったかと思った……

ほっとしたのもつかの間、ベッドに近づいてきたのは、今しがた思い描いた女性ではなかった。



「潤一郎さん、珍しく寝坊ね」


「……ゆか?」


「そうよ。誰だと思ったの?」


「夢か……」


「夢の中で潤一郎さんを起こしたのは、どこのどなたかしら。きれいな女の人?」



綺麗な人かと問われ、バイオリンの弓を持つ細い指と、艶やかな髪が頬にかかる女性の顔をしまい込み、先月世話になった人の顔を引き出した。



「そうだね、30年くらい昔は綺麗だったかもしれない。このあいだ、ポーランドで世話になった宿の女将さんだよ。

モーニングコールを頼んだら、律儀に部屋まで起こしに来てくれた」


「そうだったの、年上の素敵な方にお世話になったのね」



疑うことを知らない紫子は、そういうと、息子を見る母親のような顔で微笑んだ。

部屋には、ほどよい音量で曲が流れていた。

耳を澄ます私のしぐさに気がついた紫子は、昨日買ったCDであると口にした。



「久城るかさんのリサイタル、素晴らしかったわ。珠貴さんと、また行きましょうって約束したの」



紫子が、義姉の珠貴さんと友人のバイオリニストのリサイタルに出かける予定は聞いていた。

それが昨夜だったことも覚えている。



「宗一郎さん、クラシックは子守歌なんですって。大きなホールは、まだいいけれど、サロンの演奏会は、居眠りしたらごまかせないでしょう」


「そういえば、久城さんがコンサートマスターを務めるオーケストラの演奏会も、宗はずっと寝ていたらしいね。

舞台から丸見えだったそうじゃないか。あれでは、一緒にいる珠貴さんは恥ずかしい」


「ふふっ、そうみたい。だから、といっては宗一郎さんに失礼ですけれど、私がお供を引き受けたのよ」



演奏会は苦手であると公言する兄に頼まれた紫子は、妊娠中の義姉に付き添って演奏会に出かけたのだった。

バイオリンの物悲しい調べが、私の記憶を引き出したようだ。



「この曲は……クライスラーの 『愛の悲しみ』 だね」


「あら、潤一郎さんが曲名を知ってるなんて、意外」


「そうかな、バイオリンでは有名な曲だろう」


「そうね……」



そうね……と返した紫子の声に、どこか引っ掛かりを感じながら、何でもない顔で起き上がった。

『愛の悲しみ』 は、まだ流れていた。

夢の映像が目の奥に映り、耳に感じた熱い息と胸の奥でくすぶる思いが沸き上がってきた。

彼女の息の痕跡を消すように、両手で耳をふさぎ、髪をかき上げた。



「どうしたの?」


「いや、頭がぼんやりして目が覚めないから」


「熱いコーヒーはいかが?」


「うん、もらうかな」


「潤一郎さんの好きな豆をいただいたの。待ってて」



弾むような足取りで部屋を出ていく紫子を見送った。

紫子は、私を 「潤一郎さん」 と呼ぶ。

潤さんと呼ばれたことも、潤、と呼ばれたこともない。

潤、と呼ぶのは、兄の宗一郎と妹の静夏と、それから、過去にもうひとりいた。



「潤……ねぇ、潤」



音の記憶とともに思い出した女性の顔は、いつも寂しそうだった。

バイオリンケースを銀杏並木の公園に置き忘れたと言って、真っ青な顔で駆け出した彼女の背中を、なぜ追いかけなかったのか。

いまとなっては、その理由も思い出せない。

けれど、あのとき、紫子に後ろめたい思いが存在したことだけは、はっきりと思い出せるのだった。

遅く目覚めた休日の朝、私は重く沈んだ気持ちを抱えていた。

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