ボレロ - 第三楽章 -


秋の休日の昼下がり、「すぐきて」 と必死な声の凛に呼び出された。

昨夜、公園に大事なバイオリンを忘れた、昨日も探したけれど見つからない、一緒に探してほしいと私に訴えた。

その日、夕方から紫子と約束をしていた私は、仲のいい同僚に 「凛のバイオリンを一緒に探してほしい」 と頼んでおく、そう伝えた。



「潤、一緒に来て」


「コンサートの時間に間に合わなくなる。すまないけど」


「お願い、潤がいいの、ほかの人はイヤ」


「……ごめん」


「わかった……」



部屋を勢いよく飛び出した凛を追いかけようか、と一瞬考えたが、紫子との約束を優先した。

それから半年後、凛は当時の防衛庁に出向が決まった。

得意分野だな、良かったじゃないか、そんな言葉で凛を見送った。

のちに、森凛へ送った結婚式の招待状は、「欠席」 の印がついたハガキが返ってきた。

それから数年、彼女には会っていない。


『愛の悲しみ』 と 『愛の喜び』は、ともにクライスラーの作曲で、一対で演奏されることが多い。

そう教えてくれたのは、森凛だった。

物悲しい旋律の 『愛の悲しみ』 に、秋のあの日、寂しさをにじませて走り去る凛を重ねていた。

部屋に流れるバイオリンの曲は、いつの間にか 『愛の喜び』 に変わっていた。

明るく弾むテンポとともに、紫子がコーヒーを手に戻ってきた。   



「私は、『愛の悲しみ』 より 『愛の喜び』 の方が好きよ」


「同じ作曲者だけど、まったく違うね」


「昨日ね……」


「うん」


「リサイタルの会場で森さんにお目にかかったの。紫子さん、と呼ばれて、びっくりしちゃった。

もともと綺麗な方だったけれど、もっと素敵になっていらしたわ」


「……森さんって、どこの?」



すぐに森凛だろうと思ったが、あえてわからないふりをした。



「潤一郎さんと同じ大学だった森さんよ、お仕事も一緒だったでしょう。

潤は元気にしてる? って聞かれちゃった。だから、わたし、こう言ったの。

近衛がお世話になっております、って。森さん、大きな声で笑って、こちらこそ、っておっしゃったわ」



あぁ、だから、さっき 「綺麗な方だったのね」 となぞかけのように言ったのか。

胸の奥の揺らぎを、紫子に見透かされた気がした。



「森さん、情報局に戻っていらっしゃるんですって。潤一郎さん、聞いてる?」


「うん? うん、そうらしいね」


「お酒がとても強い方でしたね。今度、家にお呼びしましょうよ。 局のみなさんもご一緒に、どうかしら」


「いいね」



凛が外務省に戻ってくるとの情報を聞いたのは昨日だった。

彼女の顔を思い出しながら、寝る前に学生の頃の思い出をたどっていた、だからあんな夢を見たのかもしれない。



「さっき……潤って呼んだのよ」


「えっ、いつ? 気がつかなかったな」


「勇気を出して呼んだのに、潤一郎さんったら、ポーランドの女将さんと間違えるんだもの」



可愛いことを言い出した妻が、とてつもなく愛おしく、腕をつかんで引き寄せた。



「もう一度、呼んで」


「イヤです」


「ほら」


「イヤ……」



恥ずかしがる紫子へ執拗にせがんだ。

小さな声で 「潤」 と呼ぶ声に、私は心臓をつかまれた。



「やっぱり、いつもの方がいいな」


「えーっ、ひどい」


「でかけようか。どこでもいいよ、ゆかの行きたいところ」


「せっかくだけど、これから予定があるの。ごめんなさい」



紫子は、そう言うと逃げるように部屋を出て行った。

夫婦の時間に刺激をくれた森凛に感謝だ。

立ち上がり、窓から外を眺め、庭の枯れ木に目を向けた。

つがいの野鳥が、仲睦まじく枝にとまっていた。

冬枯れの庭は、そこだけ温かさに包まれていた。

< 347 / 349 >

この作品をシェア

pagetop