ボレロ - 第三楽章 -
招く手に誘われるように、彼が身を潜ませている柱へ徐々に近づいていった。
私の姿が誰かに見られてはいないだろうかと、その時までは周囲を警戒する
余裕もあったが、柱に近づいた途端手首をつかまれ強い力で引き寄せられる頃
には、周囲のことなど頭から消えていた。
柱近くにある非常口の扉が彼の手で開けられ、扉の向こうへ勢い良く押し込ま
れると、乱暴な腕により踊り場の壁に体を押し付けられた。
名を呼ぶために開いた唇は、言葉を発することなく覆われ、瞬く間に自由を奪
われた。
狂おしいほどに繰り返されるキスは私の体を甘く束縛し、思考力を奪っていく。
全身に広がる快感に、ここがどこなのかさえわからなくなっていた。
腕から力が抜け、抱えていたバッグが床に落ちた。
絡めた指が握り締められるたびに、指先から伝わる熱にうかされたような感覚
に陥り、引き寄せた腰に手の力が加わるたびに、わずかに残っていた理性が我
を忘れてはいけないと危険信号発していたが、それもほんの
ひとときのこと。
ほどなく、残りの理性を手放し、すべてを彼に預けていた。
首筋へと伝った唇は、私が触れて欲しいと願う肌へ迷うことなくたどり着き、
ブラウスの襟元近くの一点に強い刺激を残した。
腰からせりあがった手は容赦なくシャツをかき分け、胸元へと滑り込む。
随所に加わる刺激が戦慄を呼び、体の隅々にまで駆け抜け、立っているのが
やっとだった。
顔近くに戻ってきた唇が、今までの激しさを静め、この上ない優しさで額に
触れた。
「やっと会えた」
「宗……」
胸に顔を押し付けた私を宗の手が包み込む。
彼の胸で早まる鼓動を静め、意識を正常な位置へと戻した。
落ち着きを取り戻し、すばやく乱れた衣服を整え、形を変えてしまった髪の
流れを両手で直した。
彼の口元に残るルージュをふき取るため、唇へ指をのばす。
されるままになっていた宗だったが、私の指を唇に乗せたまま、唐突にこんな
事を言い出した。
「ここで俺に会ったと、誰にも言ってはいけない」
「誰にも?」
「そうだ」
「どうして?」
「どうしても」
「それじゃ答えになってないわ」
「……誰かわからない。だから、警戒しなくては」
「誰かとは、週刊誌に記事を流した人?」
「それだけじゃない、すべてを仕組んだ人物がいる」
「宗はわかってるの?」
「わからないから警戒するんだ。今は誰もが怪しく疑わしい。
俺たち以外の誰もが……」
ふたたび宗に近寄り、彼の大きな体に手を回し 「わかったわ……」 と
伝えた。
「副社長、どちらにいらっしゃいますか」 と控えめな声がドアの向こうから
聞こえてきた。
宗を探しているのだろう、ロビーを行き来している気配がする。
「時間がないのに困ったな……どこに行かれたのか」 と宗の秘書である堂本
さんの困り果てた声が聞こえてきて、タイムオーバーだと宗がささやいた。
ドアの前から堂本さんの気配が遠のき 「先に行くよ」 と言い、立ち去る宗
の背中を見送りながら、また会えるだろうかと、私はもう次の 「その時」
を待ちわびていた。
宗の香りに埋め尽くされた体には、まだ甘い感覚が随所に残っていたが、それ
らを消し去るために化粧室へと向かったのだった。