ボレロ - 第三楽章 -

3. slargando スラルガンド (だんだん幅広く)



アパートの窓から見える風景に首都の賑やかさはなく、地方都市のような佇ま

いがあった。

スイスの首都は、ジュネーブかチューリッヒだと思い込んでいる人も多いそう

だが、ベルンにはそれほど特徴がないのかといえばそうではなく、旧市街地は

世界遺産に指定されている。 

物理学の町としての顔もあり、かのアインシュタインが暮らした町としても知

られている。

なかなか興味深い街だと、窓辺に立ちながらベルンについて語っていた私は、

静夏の 「ふぅん……」 という相槌に、少ししゃべりすぎたようだと気づき

口を閉じた。



「宗って、意外と物知りなのね」


「意外で悪かったな」


「あら、褒めてるのよ。たまには、おしゃべりになってもいいと思うわ」


「確かに珍しいよ、宗がそんなに語るのは」


「珍しいのは宗だけじゃないわ。潤まで来るなんて、ふたりともどうしたの?」     


「どうしたのじゃない、おまえの様子を見に来たんじゃないか。

知弘さんもしばらく行けそうにないと聞いたから、

俺たちでご機嫌伺いに来たんだ」


「わあっ、それこそ信じられないわ。

ご機嫌伺いですって、どういう風の吹き回し?」


「おまえを心配してきたんだ。ほかにどんな理由がある」



潤一郎の諭すような言葉に、静夏はバツの悪そうな顔をしたが 「うん……」 

としおらしい返事も聞こえてきた。

ドイツへ出張のあと、静夏が暮らすこの町へ足を伸ばした。

外国暮らしの経験も数年になり生活の心配はしてはいないが、今はなんと

いっても妊娠中の体だ。

日本で待つ知弘さんや両親の意向も受け、折りよく出張でジュネーブに来てい

た潤一郎と合流し、妹の様子を見にベルンまで来たのだった。



「体調はどうだ。つわりは? 

俺が聞いたところで、なんの役にも立たないが」


「そんなことないわ。心配してもらうのは嬉しいものよ。ありがとう」



歳の離れた兄たちに負けまいと、いつも全力でぶつかってきた妹だったが、

結婚が決まり、母になる心身の変化が静夏の心持ちを柔らかくしたのか、殊勝

な言葉が聞こえてきて潤一郎と顔を見合わせた。



「ふっ、いつもそんなに素直だといいね」


「こんなときの潤ってイジワルね……つわりは、ほとんどないの。

嘔吐をくりかえしたり食欲不振とか、ひどい人は入院したりするんですって。

でもね、私はまったくといっていいほどつわりの自覚がないの。 

おかあさまも、つわりは軽かったんですって。

きっと親子で体質が似てるのね。

あるのは体の変化くらいかしら。ほら、お腹がふっくらしてきたのよ、見て」



腹部を突き出し私たちの前に見せてくれたが、見た目の変化はほとんどない。

言われてみれば、少し腹部が出ているような、そうでないような……

わからないよと言うと 「さわってみて」 と静夏が腹を突き出してきた。

兄妹とはいえ体に触れるのは少々抵抗があったが 「ほら、さわって」 と

再度すすめられ、おそるおそる腹をなでると、思いもしない手の感触に

驚いた。



「……もっと柔らかいものだと思っていた」


「でしょう? こんなに固くなっちゃうの。もう少ししたら動くのよ」



ほら潤も触ってと言われ、潤一郎も私と同じように控えめに手を腹部に当て

たが、息をのみ目を丸くしている。

職業柄か、いかなる時も穏やかな表情を崩さず、よほどの事がない限り感情の

起伏を見せない潤一郎だが、このときばかりは、予想をはるかに超えた体験に

大きく表情を変えた。



「この中に、僕たちの甥か姪がいるのか……身体の神秘だね」


「私の息子か娘です」


「同じだろう」



兄妹三人の顔が同じように緩み、笑い声が響いた。

こうして三人だけで過ごすのは何年ぶりだろう。

静夏のおかげで、兄妹だけの水入らずの時間を過ごしている。

この先、このような時間は持てないかもしれない貴重な時だった。


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