ボレロ - 第三楽章 -
「近衛、週刊誌の記事が出てから気がついたことはないか。なんでもいい」
「そうだな。まったく彼女に会わなくなった、会えなくなったといったほうが
いいだろうか」
「おい、なんでもいいとは言ったが、それは珠貴さんに会えない愚痴じゃないか。
それくらい我慢しろ」
おかしなことを言ったつもりはなかったのに、みなの顔が一斉に緩み
ニヤついている。
狩野だけは、俺も娘に会えないのを我慢してるんだ、おまえは我慢が足りないと、
変な言いがかりをつけてきた。
「そうじゃない。互いの関係者の接触は、できるだけ避けたいと努力をしている
のもあるが、それにしてもだ、すれ違う事もないんだ。
同じパーティーに出席しても、ニアミスはおろか姿さえみない。
おかしいと思わないか」
「それはおかしいですね……」
平岡が神妙な顔で考え込んでいたが、こんな事を言い出した。
「どれほど綿密な計画を当てても、必ず不測の事態は発生します。
でも、できないことではありません。浅見さんと堂本君が、先輩と珠貴さんの
スケジュールを把握して、二人を会わせないようにしているとしたら、
それは可能です」
「えっ……」
「心当たりがあるんですか?」
「ある……俺たちのスケジュールは、双方の秘書に渡っている。
あの二人が把握してる……」
「今までの記事から、先輩と珠貴さんの接触は好ましくない。
避けるようにと指示がありましたからね。
彼らは忠実にそれを守っているんですよ。あの二人が示し合わせてるとしたら、
まず会えないと思います」
「そう、だからか……」
一切無駄のないスケジュールをたてる二人が、私たちの接触を阻んで
いたということだ。
ところが、私は珠貴に会った。
なぜあの日に限って、彼女に会えたのか。
それは、堂本のひと言からだった。
あの日も、予定通りなら珠貴とすれ違う事はなかったはずだ。
午前中の予定がずれ、一時間早くホテルに到着した。
そのとき彼が告げた言葉に、私は逆らった。
”ロビー奥には、近づかないようにお願いします”
行くなと言われれば行きたくなるものだ。
なぜ行ってはいけないのかと聞き返さず、真相を確かめにホテルの奥へと足を
進め、そこで珠貴に遭遇した。
最強の秘書の鉄のような守りにも隙はある。
平岡がいうところの ”不測の事態” が発生したというわけだ。
おかげで、珠貴と密な時間が持てたのだから……
非常口を抜けた階段踊り場の光景が蘇り、体が一瞬にして火照ってきた。
触れた肌のしっとりとした感覚まで、鮮明に思い出すことができる。
珠貴の吐息を耳元で聞いたような錯覚に襲われ、恍惚感に今を忘れそうに
なった。
目を閉じ、妄想を打ち消すように大きく頭を振ってから、目を大きく見開いた。
「平岡がそれほど言うんだ、かなり優秀な二人らしいね」
「優秀ですね。ウチにきてもらった堂本君は、知弘さんが本社に入ったあと、
事業を引き継ぐはずだったそうです。
実業家としての一面もあるんじゃないですか。
浅見さんは、浜尾さんの秘蔵っ子ですから仕事は抜群にできますね。
一時は、副社長の花嫁候補と噂されたほどだ、彼女のような人を
才媛というんでしょうね」
「そんな噂があったのか? 聞いてないぞ」
「いつだったかな、アメリカ支社に出張したとき、先輩が体調を崩したことが
あったじゃないですか。浅見さんが付きっ切りで看病してくれて……
あの看病が噂を生んだわけですが、浅見秘書は副社長の有力な花嫁候補だと、
もっぱらの噂でした。
今年春の本社転勤は、副社長と婚約のためかと思った社員も多かったはずです」
「どうして俺の耳に入らなかったんだ」
「浅見さんの行動は、秘書の立場を逸脱した振る舞いだったと、浜尾さんが
厳重注意したんです。
確かにあのときの浅見さんは、少々熱心すぎました。
それと、僕も浜尾さんも副社長の身辺は把握していますから、浅見さんに
その可能性はないと……まぁ、そういうことです」
余計な噂を耳に入れる必要はないと思った、そういうことか。
時には憎まれ口を叩き遠慮のない平岡だが、彼の目配りがあるからこそ、思う存分
仕事ができるのだ。
私のすべてを知っているといっても過言ではない。
それは、幼い頃から私を見てきた浜尾君にもいえることで、秘書の立場をこえ、
二人は私にとってかけがえのない友人でもある。