ボレロ - 第三楽章 -


並べられた料理を目にして 「腹が減ったな」 と口にしたとたん猛烈な空腹に

襲われた。

先ほどの席にドリンクは用意されていたが、それは口を湿らす程度で、討論に打ち

込むあまり空腹も忘れていた。

緊張から解き放たれ、気持ちも軽やかに食事が始まった。 

みなはワインを楽しんでいたが、私は手でグラスを塞ぎ断った。



「体調でも悪いんですか?」


「そんなことはありませんよ」



沢渡さんが怪訝そうに私の顔を見た。



「ワインを断ったから、体調が悪いのかと思って。もしそうなら」


「いや、飲めないだけです」


「飲めないなんてどうしたんですか。これまで食事の時は必ず……あれ? 

どうだったかな」


「一緒に飲んだ事はありませんよ。運転するからと断ったり、食事のあと

仕事が入っているのでと理由をつけたり。パーティーの席では、ノンアルコール

のドリンクがグラスに入っていましたけどね」


「まさか、アルコールを受け付けない体質ですか」 
 

「その、まさかです。まったくと言っていいほどダメですね。

飲んでもビール一杯か、ワインならグラスに半分ほどが限界です。飲んだあとは、

必ず気分の悪さに悩まされます」


「それほど弱いとは……」

 

知らなかった……と言ったのは櫻井君で、今まで気がつかなかったとかなり驚いて

いる。



「それでよく接待やパーティーをこなしますね。食事だけではすまない席の方が

多いはずなのに、いったいどうやってその場を乗り切るんですか」


「そう難しくはないよ。相手は飲めるだろうと思い込んでいるから、車の運転や

仕事を理由にすると、あぁ、そうですかと納得する人がほとんどで 

”もしや飲めないのでは?” と疑われたことはないよ。 

強引に酒を勧める相手には、体調がすぐれないのでと言えば、無理にとは

言わないからね」



沢渡さんと櫻井君は、飲めないどころか相当飲むんだろうと思っていた、

まだ信じられないと半信半疑で、私の長年の友人である狩野へ 「本当なのか?」 

と確認するように顔を向けた。



「この体格に、この面構えだ。近衛宗一郎が下戸だとは、誰も思わないらしい。

ところが、飲めないくせにワインやカクテルのウンチクを語るもんだから、

余計に相手を惑わせるんだな」


「飲めないからこそ、言葉を尽くして酒を語るんだよ。しゃべっている間は飲まなくて

すむだろう。相手は好きな酒の話に夢中になる、俺は嫌いな酒を飲まずにすむ。 

たまに酒の愛好家だと思われて、珍しい一品をもらったりするのが迷惑だがね」


「先輩の部屋にはワインセラーもあるんですよ。ビンテージワインとか、限定物の

ワインが眠っています。もったいないと思いませんか」


「飲まないが料理に使ってもらってるよ。美味しいワインを使った料理は上手いぞ」



もったいない、の声が一斉にあがった。

飲まずに料理に使うとはなにごとか、名品をもらって迷惑とは許せんとの声に、

苦笑いするしかない。

酒を愛する彼らには、私の行動は不可解としか思えないようだ。


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