ボレロ - 第三楽章 -


帰国後、日常が戻ってきた。

会社の前にマスコミが待機している風景も当たり前になっていた。

週刊誌は懲りることなく 「近衛」 の名前を載せ、近衛宗一郎の株は下がる一方、

珠貴に会えないのも相変わらずだった。

そんな中、一つだけ大きな変化があった。

珠貴には直接会えないものの、姿を見る機会は増えていた。

ニアミスさえなかったのに、顔が見え視線を送るくらいの出会いが、二度三度と

重なっていた。


堂本がしきりに隣室を気にしている様子から、そこに珠貴がいる、この手に

つかまえられるチャンスがめぐってきたと確信した。 

直感だったが、はずれているとは思わなかった。

堂本が席をはずスタイミングを見計らって、私は廊下へと出ると化粧室前の壁に

身を潜めた。

待つほどもなく、思ったとおり彼女が姿を見せ ”珠貴” と呼びかけようとした、

まさにその時、私より先に彼女の名前を呼んだ人物がいた。

呼びかけたのは男で、振り返った彼女の顔は大きく表情を変えた。



「真一さん……」


「久しぶり、元気そうだね」


「えぇ、おかげさまで……いつこちらに帰っていらしたの」


「一年前、君の誘拐事件が報道されていた頃だ。大丈夫だろうかと心配だった。

今度も大変なんじゃないか? 何か役に立てることがあれば、そのときは……」


「ご心配なく」



男の声を遮るように、大きな声で大丈夫ですからと答えた珠貴は、厳しい視線を男

に向けている。

私が壁の陰から、私が見ているとは気がついていないようだ。



「有馬総研にいらっしゃるそうね。もしかしたら、香取の叔母と親しくして

いらっしゃるのかしら」


「知ってたのか。有馬には帰国後入った。親しくしてる? 香取のというと……

あぁ、あのおばさまか。事務所で顔を見ることはあるが、まだ直接お会いしたことは

ない。僕にとっては煙たい人だからね」


「本当にそうかしら。岡部真一は、叔母さまのお気に入りだったはずよ」


「昔のことだ、もう忘れた……珠貴、そんな顔をされると、まだ責められてる

みたいだ。

もっとも、憎まれても仕方がないと思ってる」


「そうよ……今だってまだ……」


「許してくれとは言わない」



そう言いながら男が珠貴の腕をつかむのが見え、私はとっさに身を隠した。

男と珠貴の姿を凝視できず目をそらしたこともあるが、立ち聞きしていると気付

かれては困ると思ったのだ。


珠貴と男の関係は会話から察するに充分だった。

彼女の元から立ち去った男が、いままた彼女の前に現れた。

それも、我々が警戒している有馬総研の社員だという。

香取夫人と接触はないのかと、彼に聞いた珠貴の言葉も気になるが、珠貴はなぜ

彼が有馬総研にいることを私に黙っていたのだろう。


岡部真一が事件の鍵を握っているのか、否か。

得体の知れぬ男の登場は、私を大きく動揺させた。


『昔の彼女を諦めきれない男が、マスコミを使って近衛宗一郎を陥れ、除外した

のち、彼女を自分のものにしようとしているとしたら……いたらそいつが犯人

かも知れないぞ』


狩野の言葉が、急に真実味をおびてきた。

岡部真一は、間違いなく要注意人物ということになる。

嫌なざわつきが胸に広がっていく。

「失礼します」 と珠貴の声がして、壁から身をずらし二人へ視線を向けた。

立ち去る珠貴の背中を見送る岡部真一の目には、彼女への愛しさがにじんで

いた。

男の背中を突き飛ばし、珠貴のもとへ駆けていき、肩をつかんで振り向かせたい

衝動を、拳を握り締めじっとこらえた。




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