ボレロ - 第三楽章 -


大きく息を吸い込むとコーヒーの香りが漂ってきた。

静かな足音とともに運ばれてきたカップがテーブルに置かれ、どうぞと浅見さんの

落ち着いた声に目を開けた。

まず香りを楽しみ、それから一口含んだ。

密やかな思いを払拭するのにちょうどよい苦味だった。



「お聞きしてもいいかしら」


「なんでしょう」


「先ほどの方とお付き合いを?」



先ほどの方とは誰のことか、浅見さんにはすぐにわかったはずなのに、首をかしげ

とぼけた彼女の気持ちがわからなくもない。

いままでプライベートについて話をしたことなどなかったのに、いきなり踏み込んだ

質問をされ、こまで話すべきか迷ったはずだから。

けれど 「ほら、お手を褒めてくださった方よ……」と、わざと言ってみた。

しばらくののち、うつむいた顔が小さくうなずいた。



「遠距離でおつきあいをなさっていらっしゃったの?」


「……ほとんど会えませんでしたけれど」


「そうよね、二年間も海外勤務ですもの。でもこちらへ転勤になって嬉しかった

でしょう」


「帰国後、本社勤務になりましたが 『SUDO』 へ配属となりましたので、

思うようには……」


「まぁ、それは申し訳ないことをしてしまいましたね」


「いいえ、そのようなつもりでは……本社に参ることもありますので」 


「では、お相手の方は近衛の本社に」



浅見さんは、恥ずかしそうに微笑みながら柔らかく首を傾けた。

それは恋を知る女性の顔だった。

浅見さんも、会いたい人に会えない辛さを知っている人だった。

彼女の顔を見ながら、私はあることを確信した。


宗が海外出張から戻った頃から不思議な事が起こっていた。

それまで、会えないときが続いていたのに、宗と遭遇する機会が増えているのだ。

思いもしない場所で彼の姿を見ることになったり、ときには言葉を交わすことも

あった。

つい先日、また宗に出会った。

知弘さんの友人の依頼で記念の品をデザイン室が手がけ、出来上がった品物を

納めるために出向いた先で宗に会ったのだった。

会ったとはいえ話をすることはできず、互いの顔を確認する程度だったが、

それだけでも嬉しいものだ。

彼の姿を遠くから見ていると、専務秘書である浅見さんが宗のそばに近づき話し

かけた。

その様子を見ながら、あることが私の頭の中で結びついた。

宗に会えるタイミングがやってくるのは、私が知弘さんに同行したときに限られて

いたということ。

もしかしたら、彼女が、私と宗が出会えるように配慮してくれていたのでは

ないか……

そうか、そういうことだったのか。


わかってみればなんということはない。

出会いは偶然ではなく必然だった。

浅見さんも会いたい人に会えない辛さを知っている、きっと、私の気持ちを察して

くれたに違いない。

浅見さんに聞いたところで ”私は存じませんが……” と柔らかく否定される

だろう。

けれど、浅見さん以外に私たちを引き合わせる事のできる人はいない 。


そんなこともあり、今夜も宗に会えるのではないかと期待していた。

今夜の食事の予定は急に入ったものだが、宗のスケジュールを把握している浅見

さんなら、彼のそばへと私を導いてくれるのではないかと大きな期待に胸が

膨らんでいた。


もし彼に会えたら……


『頼もしい味方が私たちのそばにいるのよ。 どなただと思う?』


今夜の電話で宗に伝えよう。

彼は誰を思い浮かべるだろうか。 

宗のことだ、その人が浅見さんだと気がついているかもしれない。


 

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