ボレロ - 第三楽章 -
「副社長は、いつもきちんとしていらっしゃいました。
お酒の席も、ご自分を律するように振舞われて、乱れた姿を拝見したことは
ありませんでした」
「そうだろうね。彼は自分の立場も自分の限界も知っている。それらを超えると
どうなるのかということもね」
「どこにいてもそうなのでしょうね。彼には副社長の立場がありますから
決して無理はしないの。宗一郎さんらしいわ」
浅見さんが。ハッとした顔になった。
私の言葉に気になることでもあったのだろうか。
何か? と聞くと、
「副社長をお名前で……あの……失礼いたしました」
宗一郎さん、と名前で呼んだ私に驚いたのだろう。
思わず反応してしまったことが恥ずかしかったのか、浅見さんはうつむいて
しまった。
彼女にとって、近衛宗一郎という人物はいついかなるときも副社長であり、親しく
接する人ではない。
それだけ、浅見さんは秘書の心構えがしっかりと身についているということでも
ある。
恥ずかしそうな顔はすぐにしまわ、思いついたように、そういえばこんな事が
ありました……と、次の話題へさりげなく話を運ぶのも好ましく、私は浅見さんへ
の高感度が増した。
「二年ほど前でした。出張で渡米されてまもなく、副社長が体調を崩されて、
お世話させていただいたことがございました。
飲みすぎたとおっしゃいましたが、決して度を過ごすようなことはなさらない方
ですから、お酒が合わなかったのか、体調がお悪いのに無理をされたのでしょう。
その時ばかりは、本当にお辛そうなお顔をされて……こんな事を申し上げるのは
失礼かと思いますが、副社長もわがままをおっしゃることがあるのだと、
ホッといたしました」
「浅見さんにわがままを? まぁ、どんなこと?」
「いえ、たいしたことではなかったのですが、あれが飲みたい、これが食べたいと、
いつもおっしゃらない要求がありまして……」
「親切に看病してくださる浅見さんに、きっと甘えたのね」
「男ってのは、元来甘えん坊なんだよ。体が弱っているときは特にね」
知弘さんのひと言は、世の男性を代表しているように説得力があった。
そうかもしれませんね、と浅見さんも笑い 「実は、わがままをおっしゃる副社長が
可愛くみえました」 とそんな告白まで飛び出し、私たちは 『副社長 近衛宗一郎』
を話題の中心に楽しい時をすごしていた。
「ここはまだマスコミも知られていないが、知る人ぞ知るレストランと言われて
いても、知られるのは時間の問題だろうね。
有名人に限らず、名の売れた人物を見かけると、ネットの書き込み等で瞬く間に
知られてしまう時代だ。今の世に、秘密なんてないに等しいんじゃないかと最近
思うね」
「そうかもしれません。それらは、決して好意的なものばかりではないのが実情
です」
「聞こえない、見えない、だから被害はないと思いがちだが、見えないところで
広がっているから厄介なんだ」
「会社への批判なあるそうですから……」
「批判ですって? 週刊誌の記事で会社にも影響が?」
浅見さんの顔が急に曇り、辛そうな表情を浮かべている。
どうしたのかと知弘さんが聞いても、すぐには答えず、かなり間をおいてから、
実は……と話し出した。
「副社長……大変な思いをなさっていらっしゃるようです」
「宗一郎君が? 僕は何も聞いていないが」
「本社の友人に聞いたのですが、お立場が、あの……」
「彼の立場がどうしたって?」
「これは、あくまで噂であるということを先にお伝えしておきます」
浅見さんの言葉に、私も知弘さんも緊張した。
うん、わかった、と知弘さんの了解の声に私も首を縦に振った。