ボレロ - 第三楽章 -


「副社長の責任問題へと発展しそうだと聞きました。社内の一部の方々が声を

あげているそうです。友人の話では、このままでは退陣の方向へ動いていくの

ではないかと……」


「退陣ですって? 責任を負ってということなの? 今回の騒動は彼のせい

じゃないわ」


「もちろんです。ですが、社内の一部の方々が、副社長が責任を負うことが事件の

解決につながると、そのようにおっしゃっているそうで……」


「一部の誰かとは、取締役の役員だね」



微かに頷いた浅見さんは、唇をぎゅっと結び悲痛な面持ちだった。 

社内の友人というのは、彼女の恋人と思っていいだろう。

噂の域をでないと浅見さんは言ったが、近衛本社にいる人の話なら、それらの

噂はかなり信憑性が高いのかもしれない。


宗の立場が危ういなんて、まさかそんなことになっていたとは。

全身が冷気に包まれ、冷ややかな汗が背中を流れた。



「彼に確かめてみるわ。そのような噂なら、彼の耳にも届いているはずよ」 


「そうですが、副社長のことですから、本当のことはおっしゃらないのではないで

しょうか」


「……そうね。彼なら私たちに心配をさせたくない、だから、余計な事は伝えたく

ないと考えるでしょうね。

浅見さんの方が、宗一郎さんのことをよくわかっていらっしゃるわ」


「いいえ、そのようなことは……」



浅見さんなら宗の気性を知っていて当然なのに、彼女の的確な言葉に私は

苛立ちを覚え、嫌味なことを口にしてしまった。

自己嫌悪に胸が苦しくなり、顔がひずむ。

知弘さんの手が私の背中をポンポンと軽く叩いた。 

大丈夫だよと言うように……



「私たちがここで心配しても、なんの解決にもならない。

とはいえ、このまま手をこまねいているのもなぁ。

彼のことだ、自分でもわかっているはずだ、おそらく策を講じているとは

思うが……」


「専務、堂本さんから何かお聞きになっていらっしゃいませんか?」


「いや、特に聞いてないよ」


「そうですか……社内の噂ですから彼の耳には入っているはずです。

どうして専務にお伝えしないのかしら」



最後に浅見さんがもらしたひと言は、私の心に影を落とした。

言われればそうだ、なぜ堂本さんは、こんな大事な事を知弘さんに報告して

こないのか。

副社長の立場を揺るがしかねない事態が起こりつつあると言うのに、なぜ……

私の中に、堂本さんへの不信感が芽生えつつあった。





デザートのあとのコーヒーが絶品だった。

もちろん料理も素晴らしいものだったが、コーヒーを一口飲んだ三人の顔が

そろって変わったのだから、深い味わいに感心したのは私だけではない。

コーヒーに一家言ある知弘さんが、言葉を尽くして絶賛した味に浸っていると、

浅見さんが失礼しますと立ち上がった。

堂本さんから電話が入ったので……と、複雑な表情をした。

いましがた彼の話をしたばかりでもあり、このタイミングの電話だったから、

浅見さんだけでなく私も知弘さんも一瞬の緊張を覚えた。

席に戻ってきた浅見さんは、堂本さんからの電話の内容をこのように告げた。



「急いでレストランの前に来て欲しいと……重要な伝達かもしれません」


「何かあったのだろう。僕も行くよ」


「それが、私だけ来て欲しいということでした。とにかく行ってみます」

   

不可解な電話だと思いながらも浅見さんを見送り、知弘さんと一緒にレストランの

窓から外をうかがうと、入り口近くに堂本さんの姿があり、後ろに車が一台

止まっていた。

浅見さんがレストランから出てくると、車のドアがあき宗が姿を見せ、その手

には大きな花束が抱えられていた。

思わず知弘さんと顔を見合わせた。

なんだ、そういうことか……ともらした知弘さんは、緊張から解放されたように

椅子に深く腰掛けなおした。

私も緊急事態ではなかったことに、とりあえずホッとした。

ホッとしたが……窓の向こう側は気になる。

窓辺に身を寄せ、ガラス越しに彼らの様子をじっと見つめた。


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