ボレロ - 第三楽章 -


いつ訪れても変わらぬ佇まいがここにはあった。

大女将のこだわりが感じられる調度品や季節ごとのしつらえは、訪れる人々の

目を楽しませてくれる。

もてなしの心が行き届いた空間で、親しい友人たちと過ごす時間はまさに

至福のとき。

秋の祭日の午後、私は割烹 『筧』 にいた。 



「美味しいお食事をいただきながら、おしゃべりができて、なんて幸せなの。 

器の美しいこと、お料理と器の調和が絶妙だわ。こういうとき日本人に

生まれて良かったと思うわね。これは九谷焼かしら?」


「そうですね。秋のお献立はお色が柔らかですから、九谷焼の彩りがより

鮮やかに見えますね」


「さすが蒔絵さん、デザイナーの目は色彩に対するこだわりが違うわぁ。 

そうだ、あちらでウチの夫が平岡さんにお世話になりました」



ご結婚されて半年、沢渡先生を 「夫」 と呼ぶ美那子さんの奥様ぶりが

微笑ましい。



「あら、沢渡先生のを、克っちゃんとお呼びになるのは卒業なさったんですか?」


「家の中では呼んでるわよ。でもね、このあいだ失敗しちゃって。

沢渡の義母の前で、つい ”克っちゃん” って呼んじゃったの。 

そのときの義母の驚きようといったら 

”ウチの克彦を気安く呼ぶんじゃありません” とでも言いそうなお顔で、 

私を睨むんですもの。怖かったわぁ」


「それは大変でしたね。でも、お義母さまにとっては大事な息子さんですから」


「いくつになっても息子は可愛いのね。ところで、紫子さんは潤一郎さんを

なんと呼んでいらっしゃるの?」


「私はずっと ”潤一郎さん” です。小さい頃から変わりません。佐保さんは?」


「彼は後輩として入社してきたので、狩野君と呼んでいましたね。

実際、私のほうが一歳上ですから。 

その後、彼が上司になったので、副支配人と呼ぶようになって、

家でもそのままです」


「えっ、お二人のときも副支配人とお呼びになるの?」


「えぇ、おかしいでしょう? でも、私たちにはしっくりくるんですよ。

いまはパパになっちゃいましたけど」



結婚なさっている、美那子さん、紫子さん、佐保さんの会話は興味深く、

それぞれの家庭が見えてくる。



「美野里さんは? お名前かしら」


「”霧島さん” としか呼んだことがなくて、どうしましょう。正樹さんと、

名前で呼ぶべきでしょうか」
 

「そうねぇ、普通はお名前でしょうけど……あなた、なんていかが? 

新婚さんらしくていいかも」


「あなたですか……ふふっ、恥ずかしくて言えません」


「だめ? では、正樹さんだから…… ”まぁくん” ねっ、いいでしょう! 

まぁくん、起きて、なんていいわよぉ」



結婚後の家庭の様子を想像したのか、美野里さんは口元に手を添えて、

こみ上げる笑いを抑えている。

結婚前の幸せな姿を拝見して、私まで幸せな気分になった。



「そういえば、蒔絵さんも ”平岡さん” と呼んでいらっしゃるわね。

お二人は同じ苗字なのに、どうして?」


「えっと、いつもは違うんですよ」


「そうなの? お二人のときは?」


「恥ずかしいので、ごめんなさい」


「あら、ご自分だけナイショなんてだめよ。さっ、教えていただきましょうか」



蒔絵さんは首を振っていたが、美那子さんの追及に根負けして、とうとう

告白する事になってしまった。

「篤史なので、あっくんです……」 と蒔絵さんは小声だったのに、みなさんの

耳にはちゃんと届き、大きな歓声があがった。



「あはは……ごめんなさい。笑うつもりはなかったのに。あぁ、本当に

ごめんなさい。ふふっ」


「いいえ、いいんです。きっと、なさん予想外でしたよね」


「予想外も予想外。私、今度平岡さんにお会いしたら ”あっくん” って

呼んじゃいそうだわ」



蒔絵さんに申し訳ないと思いながらも、平岡さんのお顔と 「あっくん」 が

つながらず、私も笑いが止まらなくなっていた。

どうぞ、思う存分笑ってくださいと蒔絵さんに言われてしまい、ごめんなさいねと

謝りながらも、また笑いがこみ上げてくる。



「珠貴さん笑ってらっしゃるけど、珠貴さんはどうなの? まさか ”宗クン” 

なんて呼んでたりして」


「珠貴さんは ”宗一郎さん” とそのままでしょう。違います?」



佐保さんに聞かれ、つい、いいえ……と言ってしまったものだから、

えっ、違うの? 白状なさい! と美那子さんに詰め寄られてしまった。

言葉を濁していると、私もお聞きしたいです、と蒔絵さんにもじっと見つめられ、

逃げられなくなった。



「普通だと思いますけど……」


「普通は ”宗一郎さん” でしょう。あっ、宗さん? まさか、宗ちゃん?」


「宗……と呼んでいます」



なぜか、わぁ……と、ため息が広がった。



「ステキ、珠貴さんらしいわね。あの近衛宗一郎氏を ”宗” って呼べるのは

珠貴さんだけね。

ウチなんて ”克” って呼んじゃうと、子どもを叱ってるみたいよ。

さまにならないわ」



何を言っても今日の美那子さんの発言は笑いを誘うもので、また賑やかな

笑い声に包まれていた。
 

先ほどのお話ですけれど、と蒔絵さんが話題を戻した。



「あちらで、美那子さんは沢渡先生とご一緒ではなかったのですか?」


「それが別行動だったのよ。私は友人宅を訪ねる予定で、彼と一緒に行く

つもりでいたの。 

でも、初対面の妻の友人に会うのは気詰まりだったのかもね。 

宗一郎さんと潤一郎さんが出張でスイスにいらっしゃるから、僕は彼らに

会ってくるよ、なんて言って、一人で出かけていったわ。そうそう、お二人にも

お世話になりました」 



私と紫子さんへ、妻の顔で礼が述べられた。

先月新婚旅行から帰られた美那子さんは、私たちへ旅行のお土産を用意して

くださったばかりでなく、今日の席の段取りも整えてくださった。

もうすぐ霧島さんと結婚される美野里さんを囲んで 「みなさんで食事会を

しましょう」 と美那子さんから楽しい提案があり、たまには割烹でいかが? 

とのお話だったが、まさかその割烹が 『筧』 であったとは驚きだった。

大女将の人柄に惹かれて通いつめ 「志乃さん 美那子さん」 と呼び合う

仲なのよ、とお聞きして私まで嬉しくなった。

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