ボレロ - 第三楽章 -


食事会は三時間近くにもなり、では次回……と名残惜しくお別れした。

お話があるのですがと、真琴さんに声をかけていたため、私と真琴さんは残り、

志乃さんのご好意で離れの小部屋に席を移した。

近衛本社でささやかれているという噂を、彼女に確かめておきたかった。



「お引止めしてごめんなさいね」


「いい、 私に出来ることでしたら、遠慮なくなんでもおっしゃってくださいね」



労わるような真琴さんの言葉が嬉しくて、実は……と、副社長退陣につながる噂

の真相を尋ねた。

浅見さんの名は伏せ、ある情報筋から耳に入ったのでということにした。

話を聞きおえると 「困りましたね……」 ともらし、真琴さんは大きなため息

をついた。



「結論から申し上げます。噂がないとは言いませんが、それらは副社長の退陣に

つながるものではありません」


「本当に?」


「はい、あれだけの記事がマスコミによって流されたのですから、噂があって

当然です。 

憶測もささやかれ、残念ながら副社長の人格を貶める発言も聞こえきました。

ですが、それらは、どこにでも存在する噂話と大差ないのではないでしょうか」


「そうですね。でも、噂はあるんですね……」



心配するようなものではないと真琴さんに言われたのに、私はまだこだわって

いた。

不安ばかりが頭をかすめ、マイナスをプラスにすることができずにいる。



「噂はあくまで噂です。ですが悪い噂を跳ね返すだけのものを副社長はお持ち

です。大丈夫ですよ」



真琴さんの言葉には、宗への絶対の信頼が感じられた。

彼だけを信じなさいと背中を押す力強さがあった。



「それにしても困ったものです。些細な噂を大きくして社外に流してしまうなんて、

どういうつもりでしょう。秘書室には、社内外の多くの情報が集まってきます。 

副社長に関する情報には、特に気をつけていたのですが……」



浅見さんから聞いた話と異なり 、琴さんには危機感を抱いている様子はな

かった。

私に余計な不安を与えないためだろうかとも考えたが、それにしては彼女の

反応は大きなものではなく、社内の誰かの憶測が噂となり、誇張されて外部

へ流れたのだろうというのが真琴さんの見解だった。


浅見さんの話が本当なのか、それとも、真琴さんの言うことが正しいのか。

真琴さんの話を聞いたあとも私の不安は解消されず、迷いが残ったと言うのが

正直なところだった。



「そろそろいらっしゃるはずですが……遅れているのかしら」


「えっ?」


「今のお気持ちを、そのまま正直にぶつけてみてはいかがですか」



誰が来るとは言わず、私は先に失礼いたしますと真琴さんは立ち上がり、この

ままお待ちくださいねと言い残すと座敷を出て行った。

真琴さんの遠のく足音と入れ違いに、早足で廊下を歩み寄る音が聞こえてくる。

私の胸は期待ではちきれそうになっていた。

もうすぐ来るであろう人を出迎えるために立ち上がったと同時に、部屋の障子が

勢いよく開けられた。

顔に汗を滲ませた彼はよほど急いで来たのだろう、息がはずんでいた。



「遅くなった。もう少し早くこられると思ったんだが、ゴルフが長引いて、

やっと……」



顔を見たとたんにあふれ出た涙を拭いもせず、まだ息の整わない彼の胸にしが

みついた。

肌に滲む汗の匂いも、私を強く抱きしめる手も、微かに煙草の香りが残る

唇も…… 

何もかもが、私が求め続けた近衛宗一郎そのものだった。


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