ボレロ - 第三楽章 -
一時間ほどお話をして、お母さまを見送ったあと浅見さんと合流した。
お話ができてよかったと彼女に伝えると、微笑を返してくれた。
私を心配して会いに来られたのだと話すと 「奥さまは、いかがなご様子でいらっ
しゃいましたでしょうか」 と、
笑みが消えた顔で聞き返された。
浅見さんの言った言葉の意味がわからず首をかしげると、
「奥さまもご心痛とうかがっていたものですから、無理をなさっているのではと
思いまして……」
「宗一郎さんを気遣ってということかしら?」
「はい、副社長は現在苦しいお立場におられますので」
「それでしたら、秘書の浜尾さんにお聞きしたら、心配はいりません、噂はたい
したものではないのでと」
「私、そのことで浜尾から叱られました」
どうして浅見さんが叱られるのですかと驚く私に、思いもかけない言葉がか
えってきた。
「大変な思いをされている室長に、心配が増すようなことを伝えるとは何事かと
怒られました。余計な雑音をお耳に入れてはいけないと……」
「それは、どういうことなの?」
デザイン室室長が私の肩書きであるため、 浅見さんは私を 「室長」 と呼んで
いる。
真琴さんへ浅見さんから聞いたとは言わなかったのに、真琴さんは私の言葉
から気がついたのだろう。
「室長にご心配をおかけしてはいけないと言われました。必要以上にお話しては
いけないと」
「では、浜尾さんは事実を私に伝えていないということなの? 本当は浅見さん
がおっしゃったように、彼は追い詰められていると……そんな……」
「私は事実を隠すべきではないと思い、室長には何もかもお話してきました。
いずれ副社長の奥さまになられる方が、本当のことをご存じないというのは、
いかがなものでしょう……」
浅見さんの言葉にドキッとした。
私が副社長の妻になる立場であると言われ、だからこそ隠さず事実を伝えたの
だと言う。
「近衛のご一族のみなさまのお話は、聞いていらっしゃいますか」
「ご本家のみなさまのことですか?」
「ご本家と分家筋の方々がいらっしゃいます。
今回の報道のあとから、跡を継がれる宗一郎様に問題があるのではないかとの
声が、一族のみなさまからあがっているそうです」
「初めて聞きました……」
「やはりそうでしたか。奥さまもご親族の方々からの声に、お心を痛めていらっ
しゃるとお聞きしました。
お優しい方ですから、ご自分のことより周りの方々へお気遣いなさいます。
私、奥さまが心配で……」
なんということか、私は自分の辛さ苦しさだけを嘆き、大事な事を忘れていた。
須藤の家で私に厳しい目を向ける親族がいるように、宗も厳しい目が向けられ
ていると、どうして今まで気がつかなかったのか。
宗やお母さまの優しい言葉、真琴さんの私を労わる言葉の奥にある、本当に
意味に気がつかなかったとは、今までいかに私だけ守られ、保護され、大事
にされてきたのか。
打ちひしがれるとは、まさにこういうことだった。
「浅見さん、あなたが知っていることを教えてください。私が知るべきことをすべて
教えてください」
「……わかりました」
彼女から聞くさまざまな事実は、私が知らないことばかりで、誰もが私を気遣い
心配させぬようにと、どれほど言葉を控えていたかがうかがえるものだった。
知らないというのは幸せなことである一方、無知に甘んじているともいえる。
私は浅見さんから多くのことを聞き、教えてもらった。
それらは、いつか宗と歩く人生に必ず役に立つものであり、なにひとつも聞き漏
らすまいと必死になった。
彼女の言葉だけが真実を告げている、そう信じて疑わなかった。