海塔にて
――元々、あのサンプルは情動が極めて少ない。孤独であることを何とも思っていないし、他者と接触しようという意思もない。
だから大丈夫らしい。
そういうものか、と思って、それから久城の健康状態について尋ねたことはなかった。
「もう渡りの季節か」
ある日、同僚が呟いた。
「渡り?」
モニタの中では、珍しく久城が活発に動いていた。
鉄棒の嵌まった窓から手を出して、何やらひらひらと動かしている。
シフトに入ってかれこれ一時間、ずっと。
「 水母だよ 」
「くらげ」
「ここ、周りが一面海だろ。ちょうど、産卵期に渡りをする水母の通り路なんだよ」
水母が渡りをする、というのは初耳だった。
「水母って空飛びますっけ」
「そりゃ産卵期には飛ぶさ。海の中にいるまんまじゃたいして移動できないだろ。片岡、あんまり水母のこと知らないか?」
彼はここに勤めて長いらしく、風物詩になっている渡りを含めて、水母の生態に詳しかった。
片岡からすれば、水母なんて水族館の水槽につめこまれた浮遊物、程度の認識だった。
そもそも今どき、周囲に広がっているようなほとんど汚染されていない海自体が珍しい。
「どこから来るんですかね」
「どこだろうなあ。あとまともに海が残ってるのってどこらへんだ」
モニタの中で、久城は肩までのり出して、手を外へ伸ばしている。
何をしているのだろう。
ここでは、できることなど限られているだろうに。
モニタの中、すいっと鉄棒の間を通り抜けて、ふわふわとした小さな水母がひとつ、久城の房に入ってきた。
気づいて、久城が手を窓から抜く。
そのまま、とたとたと久城は、動き回る水母を追いかけた。
足どりがおぼつかなくて、まるで風船を追う子どものようだ。
「あ」
ぐっと背伸びした久城が指で触れた瞬間、水母がはじけて跡形もなく消えた。
「水母って、消えますっけ」
「そりゃ触れば消えるさ、デリケートだからな。水母つぶしは久城の趣味だよ。毎年やってる」
またがらんとした部屋の中で、久城が窓際に戻っていった。