メモリ・ウェブスター
「今でも愛している奥さんに決まってるだろ。より戻してえんだよ」と院長はマスクを外した。マスクをしていたのも頷けた。歯科医に珍しく歯並びは階段のようにガタガタだった。
「後悔か」
「お前は色男だからいいけどな。俺みたいにガタガタな男を愛してくれる女性は大切にするもんだ」
「だが、別れた」
「夢を目指す過程というのは苦難の連続だ。その過程で俺は一度負けた。となると精神が病み、逃げ腰になり、かつての輝きは消え失せる。栄光が過ぎ去ったロックバンドのようにな。ダラダラとした毎日、だ。そりゃあ、女は嫌気が差す」
 院長は、ここではないどこか、を見つめていた。人は過去を振りむかないよう足掻いても、結局ふとしたきっかけで回想が始まる。私はその現場を何度も見てきた。そして、何度も、ここではないどこか、を見つめている表情を目撃し、胸に刻んできた。
「それでも忘れられない」
 私は言った。
「ああ、忘れられない。今の現状を見て、昔の俺ではないことを知って欲しい。記憶を届けるのがお前の仕事だろ?」
 院長の目に輝きが戻った。希望なのか夢なのか望みなのか、眩いぐらい目が煌々と光っている。
「届けはするが、相手が見るとは限らない。それが男と女の難しいところだ。なにせ相手の精神的や物理的なタイミングもある。男女の恋仲とはそういうものだろ?合致するかしないか」
「色男は真実を言い当てるねえ」と院長は指を私に突きつけ、「だがなあ。思いってのは届くんだよ。俺が思い出してれば、ふとしたきっかけでむこうも思い出すものなんだ。そうすればしめたもんよ」と勝ち誇った声音に変化した。
 院長を観察していた私は、本当に大丈夫なのだろうか、と訝る。だが表情には出さない。それが仕事でもあるからだ。
「記憶を届ける媒体は何にする?」
「媒体?」
「箱、カップ、風船、まあ、なんでもいい」
「色男から、風船、という単語が出るとは思わなかったな」
 ヒヒ、と院長が笑う。
 それを無視して、「決めてくれ」と私。
「CDに収めてくれ。時代が変われど音楽は不変だからな。何度も想像を掻き立てられる」
「その考え方は嫌いではない」
 私と院長の目と目が合った。互いに表情を変えず、そして彼の目が静かに垂れた。
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