教師Aの授業記録


「……私のこと?」

何のことやら、と空とぼける山下絵里の無表情が微かに強張るのを田中は見逃さなかった。


「そうだ。
お前とお前が兄貴だと言うあの馬鹿男のことだ」


と言い切る前に、山下絵里がおもむろにその手を田中の額に直下に振り下ろし、チョップを食らわせた。

完全に不意を突かれた田中は「うわ」と驚いて、どつかれた額を押さえ、恨めしげに相手を見た。


「いきなり何すんだ。てめー」

田中が低く怒っても彼女の表情が変わることはなかった。

「……兄は馬鹿なんかじゃありません」

至って真面目な声で返す。

「今はちょっと変になってるだけです」

「……ちょっとなのか、あれ」

呆れたように呟いた田中は、しかしすぐさま言葉を失った。


山下絵里が顔を隠すように下を向いた。

よく見ると肩が震えている。


今どんな表情をしているのか窺い知れないが、田中には分かっていた。

彼女が顔を隠そうとしたり、視線を遠ざけようとする時は、たいていその表情に隠しきれない本音が現れている時だ。


田中は落ち着きなさそうに身体を揺らした。

こういう時に一体どうすれば良いのか、人付き合いの薄い彼にはさっぱり分からない。

ましてや、相手は異性。

見た目によらず、彼は女性との付き合いというものを今までしたことがなかった。


彼は視線を泳がせ、何とはなしに中庭を見下ろす。

そこで、ふとその隅の自販機が目についた。

「……そ、そうだ。何か飲み物でも買ってこよう」

思いつきで言い、そしてそそくさとその場の空気から一時だけ逃れるように階下に下りていった。

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