愛を教えて ―輪廻― (第一章 奈那子編)
自分さえ関わらなければ、奈那子は深窓の令嬢として、幸福でいられたのだ。

もしそうなら、桐生が結婚を急ぐことはなかっただろう。泉沢に強行突破されることもなく、その前に不正が明らかになったはず。泉沢との内々の婚約を解消し、いずれ周囲に祝福された結婚をしたに決まっている。

出逢ったころの奈那子は、黒い絹糸のような髪をして、しなやかな指先で鍵盤を叩いていた。

将来は、子供たちにピアノを教えるのが夢だ、とその言葉を今も覚えている。


それが今は、長い髪を無造作に束ね、慣れない家事で指先はボロボロだ。

こんな場所で、大きなお腹を抱え、苦労するような運命に引きずり込んだのは太一郎だった。


そのふたりの出逢いが、太一郎の悪意だと知ったとき、奈那子は何と言うだろう?

奈那子を抱きながら、他の女とも寝ていたことを知れば?

奈那子から巻き上げた小遣いを、女と遊ぶ資金にしていたのだ。あのとき、奈那子が妊娠しなければ、きっと他の男に襲わせていただろう。

一年前の約束など、太一郎は口にした三日後には忘れていた。彼女の顔と共に……。


太一郎は深く息を吐き、一気に吸った。

そして息を止め、口を開いたのである。


「茜は……藤原でメイドをしてた。そのとき、俺は……茜を殴って犯そうとした」


奈那子は小さな悲鳴をあげ、口元を押さえる。

そのとき、彼の中で声が聞こえた――余計なことは言うな、と。

ただ一度の過ちで、それを償うために茜と関わっている。そんな嘘を言えと心の声がする。


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