羅刹の刃《Laminas Daemoniorum》
頬で感じるこの水の感触はとても滑らかで、手触りの良いものだった。
ただの塩分でしかないのに、掌に雫を乗せてみると、それはとても美しい。
顔に西洋妖怪の血液を浴びて、それが血涙のように頬から滴り落ちたことはある。
しかしそのときの血のように、汚いものではない。
「んん?」
手の平を顔の前に上げて硬直する酒童の様子に、陽頼が小首をかしげる。
酒童はそんな、後ろにいて見えない陽頼に、底知れぬ愛おしさを感じた。
いつもよりずっと深く、なにかを求めるような想いが込み上げる。
どれにも代え難く、どれを渡されても譲れないものが、いま初めて芽生えたその時には、髪を切る音はほとんど聞こえなくなっていた。
「……陽頼」
後ろでハサミやら櫛やらを触り始めた陽頼は、酒童に呼ばれて顔をあげる。
「なに?」
「……俺、お前のこと好きで、いいか?」
唐突の、しかも突拍子もない質問に、陽頼は不意を疲れたように目を丸くする。
そしてこめかみを掻き、「んんー」とうなった。
「それは嶺子くんの自由だけど……私は好きだよ」
少なくとも。
ふわりと陽頼は言う。
「……そ、そう……」
「いま照れてる?」
「……んん」
涙に腫れた頬をいつになく赤らめる。
「できた」
そして陽頼は敵将の首でも取ったかのように酒童の髪を握り、両手を天井に伸ばす。
「鏡見てきなよ。ザックリいっちゃった割には、すごく良いから」
そうやって陽頼は、酒童の前に手を差し伸べる。
酒童はなにを思ったのか、そんな陽頼の手を、そっと自分の手で包みこんだ。
陽頼がうつむいた酒童を、瞬きしながら凝視する。
酒童はおもむろに顔を見せた。
切れ長の瞳には、不気味な翠の瞳が宿っている。
「俺は……陽頼が好きだから」
酒童はそして、労わるように陽頼を抱き締めた。
いつも以上に優しく、その柔らかい肌に傷ひとつつけないよう、神経を研ぎ澄ませて、なおかつ深く腕に抱いた。
「本音いっちまえば、俺だって別れんのは嫌だ。
その……一緒にいたい。
けど陽頼が死ぬのもごめんだ。
だから、俺は命に代えても鬼にならない。
……人の、俺として、側にいる」
酒童の、翠になりかかっていた瞳は、ふっと漆黒に変わると、黒っぽかった肌も、鋭利に伸びた爪も、元どおりの形に戻っていたのだった。
その細くも屈強な腕の中で、陽頼は酒童の肩口に顔を埋め、あの時の……服屋で見せた時のものと同じような、ほんのりと紅くなった顔で、
「うん……」
と、そのパッと見てひ弱そうな胴を抱き締め返した。