羅刹の刃《Laminas Daemoniorum》
教官の例えに、青木は制服である直衣の袂で小さな拳を作る。
「そんな……」
まだどこか納得いかなさそうな青木に、教官は「では」と人差し指を立てる。
「君は、たまたま近くにいた幼稚園児が、野良犬に噛まれたとしよう。
……そうなったら、君はその野良犬を蹴り倒し、犬が気を失うまで暴行し続けるのかい?」
教官の視線が青木を射抜く。
犬が人間より弱い、と断言はできない。
しかし人間が持てる力をもって暴力を振るえば、犬だって平気でいられるはずがないのだ。
そんなこと、犬が可哀想だからできません。
そう言おうとして、青木は息を飲んだ。
野生の犬は、襲う相手を“可哀想”と思って攻撃をやめたりはしない。
相手を思って手加減をする生き物は、せいぜい人間くらいしかいないのだ。
「彼は自分の方が相手よりも強いことを知っていた。
知っていてなお、彼はそんな相手に対して、自分の持てる力の全てを相手にぶつけた。
そりゃあ、ボコボコにできて当然だ。
自分の方が強いのだから」
青木はそれでも、あんな男にはやりすぎくらいがちょうどいい、と恐ろしいことを思う。
しかしその一方で、教官の言葉が正論だと認める自分もいた。
「彼は正義感、闘争心、身体能力、どれも優れた人材だ。
あの酒童にも並ぶ逸材になるだろう。
……これは朱尾くんの本心を知らない我々の持論なんだが、彼の行動はあまりに人間としての理性が伺えない。
酒童と決定的に違うところだ」
酒童は、呪法学の生徒にも“米つきバッタ”として知られるほどの、凶悪そうな顔の割に大人しくて謙虚な人だった。
それに反して朱尾は、弱肉強食という獣の掟に従ったような人だ。
もちろん、その裏腹“年下には手を上げない”という、曲がりなりにも義心があることも知っている。
しかし、青木から見ても、朱尾はどう考えたって過剰な義心に動かされて、女性に手を上げた。
「……朱尾くんを退学にさせるのは、我々としても非常に惜しい。
彼の人柄と、あのグループの非道も踏まえて、私からも教官長に掛け合ってみよう。
だが、それでもダメなら、もう諦めるしかない」
その日は、やけに北風の吹く日だった。
びょうびょうとパイプの中を風が吹き抜ける不気味な音がして、青木はうつむいた。
「……わかり、ました」
青木はうなづくしかない。
しかしそんな声は今にも、轟々と鳴り響く風音にかき消されそうだった。