狡猾な王子様
逃げるように木漏れ日亭をあとにした僅か数分後、不意に先ほどまでの出来事が押し寄せてきた。


泣くのは息をするように簡単で、今なら力を抜けば涙が零れてしまうのはわかっているけど、あそこまで言われても自分の気持ちを口にできなかった私には泣く資格なんてない。


沸々と湧き始めた苛立ちは、佐武さんに対してなのか、自分自身へのものなのか……。


きっとどちらも正しくて、そしてその天秤は確実に私に対するものの方が重い。


視界が滲みそうになることを察して唇を噛み締めようとしたのに歯がカチカチと震えて噛み合わず、そこでようやくエアコンの存在を思い出してスイッチを入れたけど、吐き出されたのは私を嘲笑うかのようなひどく冷たい風。


虚しさを抱いてますます泣きそうになった時、フロントガラスを滑る無数の小さな雫に気づいた。


まるで、涙雨。


前にもこんなことがあったな、なんて心の中でどこか冷静に呟いた私は、意地でも泣きたくなくて……。


唇を噛み締めたまま、ただただ家路を急いだ──。

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