さよならをください
たった今聴かされた歌は、間違いなく僕が生まれて初めて涙を流した歌だ。

だけど、涙は流れてこなかったし、とてもそういう感情になる気がしなかった。


「あの歌だけど、全然違います。

これじゃ余計に思い残してしまいます」


そう言うと、腕を組んで考え事をしながら辺りをくるくると回り始めた。

そして、「うーん」と唸ってはこちらを見て回り、唸っては回りを何度も繰り返した。


「しょうがない、特別です。

この歌を聴いた時間にあなたを戻します」


その言葉に嬉しさというよりは、何故か不安のようなものが僕の胸を小突いたような気がした。


「ただし、今のあなたのように重要な記憶は消させて頂きます。

いつ、どこで、どういう風に聴いたということはもちろん、その時間にあった出来事などはあなたの中から全て消させて頂きます」


「だけど、それであの歌を聴けなければ・・・」


一度聴いたあと二度と聴けなかったように、あの時間に戻ったところでもう一度聴けるという保証はない。


「大丈夫、私は不便なことは嫌いじゃないから」


「えっ」


突然、その場に立っていた床が抜けたように真っ暗な闇へと僕は落ちていった。
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