先天性マイノリティ
ゼロジが書き遺した文字を見て、微笑む。
時化(しけ)た原稿用紙を捲っていくと、最後にぽつんと、「ウエダレイジ」と標(しる)してある。
…十数年前、彼は隙を狙って入院先の病院から失踪した。
捜索をしても見つからず、現在も所在不明のまま、行方は誰も知らない。
病院のベッドの上で憑かれたように書いていたというこの物語は、タイトルが決められないまま、今も著者の帰りを待ち続けている。
ゼロジが病院を抜け出した日、枕元にあったのは宮沢賢治の文庫本、丁寧に畳まれた白いパジャマと、この原稿だけ。
他の書き置きはなかった。
季節を幾度も越え、齢は四十を過ぎてしまった。
皺の刻まれはじめた手で、原稿を引き出しに仕舞う。
──時間が流れ、私は「カガタニメイ」になった。
相変わらずこの街の片隅、アパートに二人で暮らしている。
特別なことはなにもなくても、毎日が幸せだと思えるようになった。
「行ってくるよ、メイちゃん」
「あ、待って!私も出掛ける」
「ああ…別にパート辞めてもいいんだよ?俺働いてるんだし」
「なに言ってんの、私、対等にいたいんだから変に女扱いしないで」
「…そういうとこ、相変わらずだね」
「シュウちゃんだって相変わらずじゃない?」
厚い少年漫画を片手に出勤をする様子を見て笑う。
仕事で役職が上になっても傲らない彼の性格が、とても好きだ。
私たちは、変わっていない。
死ぬまで変わらずにいようと決めた。
旦那となった人の手を取り、アパートを後にする。
穏やかな日常がこんなにも幸せなのだと、知らなかったあの頃。
今日も、空は変わらずに青い。
今年ももうすぐ、コウの命日が来る。
二児のパパになったナツメさんにも久し振りに電話をしてみよう、と思う。