若と千代と通訳
ちょっと苦労した千代さんとハローワーク臣
千代は意外と苦労人である。
両親は共働きで、中流家庭。特筆すべき苦労もせず、高校を卒業して、専門学校に入学した。
が、専門学校で何故か唐突にいじめにあう。正直、何が原因だったのか、卒業した今となってもわからない。いじめられてる、と自覚しだしたのは四年に入ってからだ。なのでなんとか我慢できた。わけのわからない他人の嫌がらせに屈して、頑張った三年間を無駄にしたくなかったし、ぶっちゃけ学校を辞める手続きって面倒くさそうだな、と考えていたため、なんとか中退は免れた。
専門学校を卒業したはいいが、嫌がらせと無視が繰り返される日々に憔悴しきっていた千代から、頑張った四年間の成果はきれいさっぱり消え去っていた。要するに習ったこと頑張ったことがすとんと抜け落ちて、どう考えても就職に活かせる状態ではなかった。
それでも頑張って就職活動したのだが、この不況で(っていうのは良い訳かなあ。でも現実だよなあ)、結局正社員内定も取れず、途方に暮れた。
若干ぐれ始めていた千代に、トドメを刺したのは母だった。
まさに獅子がわが子を崖に突き落とす、を実行したのだ。
就職決まらなくてくさくさしてる暇があるなら、バイトでもなんでもいいから働いてこい、との教育的指導だった。前述の祖父の娘である母は、かの祖父に似て、粋できっぷがよくて娘の千代にも猛烈に厳しかった。
そしてその教育的指導の翌日には家を追い出された。もう成人してんだから自立しろ、と最低限の荷物と共に。
スパルタ。
キャリーバッグ片手に世間の荒波に放り出された千代は、ただ呆然とそう呟くしかなかった。
とりあえず、中学校時代の友人の家を訪ね、そこで短期間寝泊りさせていただきながら、職を探した。探しまくった。ただどこも従業員は飽和状態で、雇ってくれるところはなかった。
なぜだ。
求人雑誌も読み漁って、ハローワークにも足を向けた。
呪われている、お祓いしなきゃ。と本気で思うほど面接で落ちまくった。
千代の頭の中では、生前祖父が言っていた「てめえの世話をてめえでできるようになってからが一人前」がひたすらリピートしていた。
じいちゃん、千代はてめえの世話もまともにできない半人前です。
友人に借りた枕を涙で濡らした。
ビール片手に友人が言った「これはもう水商売しかないわ」という冗談を真に受けて、キャバクラに赴いたくらい切羽詰っていた。
しかし、そのことで千代の呪われ人生はちょっとした転機を見せた。
千代がキャバクラだと思って突撃した店は、キャバクラじゃなくてフィリピンパブだった。このふたつがどう違うのか千代には全くわからなかったが、とりあえず日本の女の子とフィリピンの女の子の違いなんだな、と店名からなんとなく悟った。
もうこの際、フィリピン女子に化けてもいい。土下座して働かせてくださいと頭を下げた。繁華街を道行くいろんな人が見てた。その中に妙にがたいのいい黒服の大男がいたのを覚えているが、顔は見えなかった。
支配人の携帯電話が鳴って、そのまま店のドアを閉められた。
まただめだった、と閉じられたドアの前で泣き出した千代を、再び開いたドアが襲った。鼻血が出た。
再登場したフィリピンパブの支配人は言った。
「アンタがりがりでしかも陰気臭いからキャバクラも無理」
とか言われた。
何故かフィリピンパブの支配人にまでトドメを刺された。
泣いた。
しかし支配人はそんな千代を引きずって、商売仲間だという隣の「居酒屋ごんぶと」に突っ込んだ。
大将の桂と女将の芽衣子は、千代の事情を知ると爆笑しながら雇ってくれた。
千代は涙と鼻血を流しながら土下座して感謝した。
ありがとうフィリピンパブの支配人。
ありがとうございます大将、女将さん。
こうして居酒屋ごんぶとアルバイト・千代は誕生したのである。
何故か翌日、見かけたフィリピンパブの支配人の顔は無数の蜂にでも刺されたかのようにぱんぱんに腫れていた。正直支配人の服着てなかったら誰かわからないくらいだった。
「いやー、あの時の若の素早さっていったら、思い出しただけで爆笑ものですな」
志摩がテキーラを片手に笑った。
若こと臣は、黙ったままセブンスターを吹かしている。
「まさか千代嬢がうちのシノギの店に突撃するとはねえ。よかったですね、あの瞬間あの場に居合わせて」
ふたりはそのシノギのひとつであるクラブに来ていた。奥の個室で、女も呼ばずのんびりと酒を煽る。
「普段はしのぎのことには口ひとつ出さないくせに、いきなり電話なんかかけるから支配人のやつちびりかけてたじゃないですか。可哀想に」
いいながら、長い脚を組んでピースに火をつける。全く可哀想がっていない。
「なのに支配人がドアぶつけて鼻血吹かしたからって、顔あんなになるまで殴るのはさすがにやりすぎじゃないですか?あんたの指示通り、千代嬢を水商売から遠ざけてくれたってのに。まあ、あのあと反省してたみたいなんでもう言いませんけど」
とかいいながら、志摩はこの話を既に七回くらい繰り返している。そのたびにもう言いませんけど、とか言っている。見た目も口も、基本的に信用のならない男なのである。
「つーか、あのままパブで働かして、みかじめ料滞納でっちあげてその見返りに千代嬢もらっちまえばよかったんじゃないです?したら犯るも埋めるも若次第でしょでえっ!」
志摩がピースをくわえたまま器用に叫んだ。
テーブルの下で蹴り上げられた臣の脚が、志摩の脛を見事に砕いた。
「いってえ……、まあ、若が千代嬢を埋めるなんてできないの知ってますけど」
ちなみにヤルほうも恐らくできない。
志摩はちらりと視線を上げて、七本目の煙草に手をのばした臣を見た。
口数は皆無、べらぼうに強い、きたねえ仕事もきれいな仕事も兄貴から言われりゃ無表情でこなす。馬鹿やらかしたどうしようもないくず人間殺してバラすなんて朝飯前のくせに、惚れた女には挨拶すらまともにできない。
嬢に惚れてから、イロのひとりも作らずしれっと禁欲生活続けて、相当溜まってるくせに未だに手のひとつも握れていないんだから笑える。いや、笑っちゃ悪いけど。いや、やっぱ笑える。
(これでも、若には幸せになってほしいんすよ)
余計な世話だとはわかっているが、ただでさえこの家業と一般人じゃ難しいってのに、臣の性格を考えると絶望的だ。
「いい加本腰入れないと、目え離した隙にカタギのやろうに持ってかれちまいますよ」
老婆心ながらそう口にした志摩から、臣はふいと視線を外して煙草を吹かした。