若と千代と通訳
ついてない千代とやらかした志摩と欲望に忠実な臣



千代は大量のビールジョッキを洗いながら、油で汚れた『ごんぶと』の天井をぼんやりと眺めていた。
客足が落ち着いた今、同じバイトの大学生を早上がりさせ、自分は厨房に入って洗い物をする。
いつもの流れだ。なにもおかしなことはない。
というのに、近頃の千代にとってその作業は苦痛だった。
黙々と洗い物をする時間は、頭が空っぽになって無意識に考えたくないものを考えてしまう。
そして空っぽな千代の頭の中をループするのは、先日の臣の顔だ。
暗い路地、生ごみの悪臭、吹き飛んできた見知らぬ男、いつもよりくたびれた前髪、頬の血、無気力な黒い眼――。

(あんな臣さん、初めて見た)
当たり前だ。千代が知っている臣のことなんて、吸っている煙草がセブンスターだということくらい。他は知らない。なにも。
(臣さん、喧嘩慣れしてた……)
最低でも四人はいた気がする。刃物を持っていた相手を、臣は顔色も変えずにのしていた。
喧嘩というものは、どれだけ慣れていようが、アドレナリンが分泌されて興奮状態になるものだと思っていた。人間関係をうまくさばけなくて、友人ときまずくなる程度の喧嘩しかしたことがない千代だが、それでも友達になにか言ったり言われたりするのは相当な体力をつかった。どくどくと血液が流れを早くして、心臓が早鐘を打つ。
それなのに、臣は、まるでいつもと変わらず、まるで小バエでも相手にするように、大の男を吹き飛ばしてヤクザキックを喰らわせていた。
(なんだろそれ、どういうことだろう……)
わかるようでわからない。わからないようでわかりたくない。
妙なジレンマに追い立てられて、ここ数日、仕事に集中できない。注文のミスがいつもの倍になった。こうしてぼんやりする隙ができると、狙ったように無気力な臣の顔がちらつく。
「千代ぉ、やっぱおまえけーれ」
そんな千代を見かねて、大将の桂が溜め息を吐いた。
その言葉に、千代ははっと現実に戻る。
桂からその言葉を言われたのは、これで三度目だ。
ここ数日様子がおかしい千代を、女将の芽衣子共々心配してくれていた。大将夫婦にとってはなにより、『あのヒト』直々に頼むと預けられてアルバイトであり、雇ってみれば性格も悪くないしよく働く。千代は夫婦のお気に入りで、『ごんぶと』の看板娘だった。
「客のほうも落ち着いたから、あんたはもう帰って休みなさい」
女将の芽衣子がふきんでカウンターを拭きながら千代を心配そうに見ている。
小太りだがきれいな顔立ちをしている芽衣子に見つめられ、千代は困惑した。
「……すみません」
帰れと言われた前回二回は、激しく反省してそれを断って閉店まで居続けたのだが、さすがに三回目となると、断ることすら白々しく感じる。
全然大丈夫じゃないのに大丈夫といい続け、しまいには迷惑をかけてしまうような予感――。
千代は頭を深々と下げ、洗い物だけきちっと片付けると『ごんぶと』を後にした。

十一月はじめ。
やはり寒い。
千代の短すぎる髪は、外気に曝された首を守る役目を果たさない。
千代はミリタリーコートの内ポケットからイヤホンを取り出すと、耳にはめた。スマートフォンに繋がったそれから、学生時代から聴きこんだ洋楽が流れてくる。
周囲をビルで囲まれているため強い風は吹かないが、停滞している空気は冷え切っていて、いよいよ冬が訪れたのだと千代に知らせた。
吐く息が白い。
見上げても、ネオンに霞んで星ひとつ見えない。
千代の実家は、ここより車で一時間ほど離れたところにある。一時間もかかれば相当な距離で、辺りにこのような繁華街はないし、街中ですらない。平野に広がる田園地帯に、ぽつりと建つ古臭い我が家――あそこなら、星の光を邪魔するのは月くらいだ。
そんな実家から追い出されて世の辛酸を舐め、自暴自棄になりキャバクラ(と思い込んでいたフィリピンパブ)に突撃した挙句、ようやっと職にありつけたのが、桂と芽衣子が経営する『ごんぶと』だった。
アルバイトとはいえ、『ごんぶと』には苦境を救ってもらった恩がある。それなのに、あんな上の空で働くなんて恩を仇で返しているようなものだ。
『千代よ、善し悪しに関係なく、やられたらきっちりやり返すんだぞ。……っても、悪意には悪意で返すんじゃねぇ、んなことやってっと、おわんねえからな。ただ、ヒトサマの厚意には、おめーの全力の厚意でお返ししろ。またいつかお前にその厚意が返ってきて、いいことがあっからよ』
からからと豪快な笑い声を上げて、祖父はよくそう言っていた。
その言葉が、そんな言葉を飾らずはっきり言える祖父が、千代は大好きだった。
そしてそんな祖父の意思に、今の千代は反している。
(このままじゃだめだ)
とはいえ、解決策が見つからない。
どうしたらあの臣が千代の頭から消えるのか――。
(会えればいいのかな)
いつもどおりになった臣を見れば、安心するんだろうか。
(そもそも、私はなにを気にしてるんだろう。あんな不健康そうな臣さんを見たからって、私になんの関係があるわけ?ないじゃん、あんたが勝手に臣さんに片思いして、勝手に心配して不安になっちゃってるだけじゃん)
ばかじゃないの。
千代は冷たいコンクリートについた自分の足を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「あっれー!?おねえさん、久しぶりー!」
破れたコンバースのつま先を見つめていた千代の背中が、けたたましい声と共にばしんと叩かれた。いたい。
聞きなれない声に千代が振り向くと、見覚えのない男の子数人がにこにこしながら立っていた。
見た目からして恐らく大学生だが、生憎千代にその年代の知り合いはいない。
千代のあんたたち誰?を感じ取ったのか、真ん中に立っている妙に目立つ青年が声を上げた。
「あっれ忘れちゃった?おれだよ、おれおれ」
おれおれ詐欺である。まさかこんな往来であうとは思わなかった。
「この前さー、おねえさんの働いてるお店で飲んだの、覚えてない?」
言われて、アビゲール事件を思い出した。
あの日、臣に初めて接触してしまったのだ。
千載一遇のチャンスを逃した、情けない夜であった。
ついでに、その夜、大学生サークルが『ごんぶと』で飲み会をしていたことを思い出した。
「あ、隣のクラブに誘ってくれた子……」
『ごんぶと』の隣はそれぞれフィリピンパブと高級クラブである。
「そうそう、思いだしたー?」
青年が人懐こい顔でにこにこしているが、思い出した、と言われるほど知り合った覚えもない。
「ねえねえ、もう上がり?この前は振られちゃったけど、今日こそは飲みに行かない?」
今から皆であのクラブにリベンジするんだーと無邪気ににこにこしている。
「リベンジ?」
「なんかさー、うちは一見さんお断りですとか言われて門前払い食らっちゃってさー、だから今日は親父の名刺持ってきたんだ」
親父の名刺でリベンジなるのか?
千代が首を傾げると、青年の後ろにいた背の低い青年が声を掛けてきた。
「こいつの親父、でかい病院の院長なんすよー」
ついでにあのクラブの常連らしい。父親の夜の内情を知ってる息子って、なんかやだな、と思わずにはいれなかった。
「俺、一ツ橋って言いまーす。ね、おねえさん、行こうよ」
親父の名刺で高級クラブにリベンジするらしい一ツ橋くんのその一言に、彼の友達も勢いづいて千代を取り囲んだ。
深夜を回っていないとはいえ、夜も遅い。とはいえ繁華街のここには、今日も多くの仕事帰りのおっさんやおにーさん、水商売のお姉さん達が行き来している。そんな往来で円陣を組まれ、行こうコールを捧げられているなど、目立つことこの上ない。
千代は若者の押しの強さに屈した。

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