若と千代と通訳
「千代さんて言われるのね。古風で素敵だわ」
自分でも気に入っている名前を美女シイナに誉められた。
とはいえ、千代からははあ、という生返事しか出てこない。
(早く帰りたい)
この雰囲気。苦手だ。
きらきらした華奢なシャンデリアに、お酒と煙草の臭い、男女の会話、囁くような笑い声。
一ツ橋率いる大学生組は、シイナをちらちら気にしながらも自分についてくれているホステスに鼻の下を伸ばしている。
「……こういう場所、苦手なの?」
シイナから砕けた口調で問われ、千代は小さく頷いた。
苦手もなにも、初めてなんですけど。
シイナはそんな千代にそう、と優しく微笑むと、ふとその瞳から笑みを消した。
顔全体は微笑んでいるのに、目だけが冷たくなって、千代は思わず、シイナから距離をとろうと腰を上げる――。
「でもね」
しかし離れきる前に、綺麗なネイルに腕を絡め取られた。
美しいカールを描いた睫毛がくるりと上向いて、腰を浮かしかけた千代を下から見つめていた。
頭上のシャンデリアのきらきらが映りこんだ夜空のような瞳が、愉快な猫のように歪む。
「臣さんは、こういう場所、結構いらっしゃるのよ?」
はい?
「座ったら、みっともないわ」
千代が中腰のまま呆然としていると、がらりと口調を変えたシイナが煙草を取り出した。
ブラックデビルと金字で描かれた灰色の箱。千代はそんな煙草、見たこともない。
「火」
えっ。
端的に言われた一言に、千代は思わず固まった。
「火」
もう一度繰り返されて、それに気付いた大学生組のひとりがチャンスとばかりに点火したライターを差し出す。
煙草を咥えたグロスの唇がライターの火に照らされて、直視できないほどえろい。
じ、と煙草から煙が立ち上ると、甘くて苦い、チョコレートのような香りが立ち上った。
千代が知るセブンスターとピースの臭いとは全く違う、嗅ぎなれない臭いだ。
「へえ、珍しいの吸ってんね、シイナさん」
一ツ橋がその香りに惹かれるように千代のほうに顔を近づけた。
シイナはふうと紫煙を吐き出すと、ふふ、と少女のように笑う。
(あ、小悪魔だ)
千代は悟った。
「ブラックデビル・チョコレートっていうの。私、この煙草が一番すき」
癖になりそうな香りが、千代の隣でふわふわと濃度を増す。
単体ならともかく、こうも雑多な臭いの中で漂うと、ちょっと癖が強すぎる。
(なんか酔いそうだな……)
千代は手元のウィスキーを煽った。
シイナと一ツ橋は、静かな千代を挟んで煙草の話で盛り上がっている。
挟まないでくれ。席譲るから、シイナさんから離れさせてくれ、と一ツ橋を見つめる。それに気付いた一ツ橋は、にっこりと笑って空になった千代のグラスにおかわりを注いだ。
千代はまたも諦めた。
(臣さんの知り合い……)
ぼんやりと、愛らしくも婀娜っぽい笑い声を上げるシイナを眺める。
(めっちゃ美人。なんだこの人。臣さんに超お似合い)
臣はあの巨体で熊と恐れられがちだが、ふと正面から目を合わせてみるとその顔の造りにはっとさせられるくらいには整った容姿をしている。
野性味はあるが、理路整然とした顔のパーツが、とてつもなく理性的に見せるのだ。切れ長の眼だって、すっと通った鼻筋だって、厚めの唇だって、妙に色っぽい。
美人なアビゲールと並んでたって、遜色ないくらいにはかっこいい。そしてあの壁のようながたい。見る人が見れば、たまらない物件なのである。
「ちょっとおトイレー」
一ツ橋が、そんなことを言って個室から出て行った。千代はぐるりとカーテン内を見渡すが、相変わらず学生組は鼻の下を伸ばしてホステスさんとの会話に夢中だ。
「……私のこと、どうして知ってるんですか?」
彼女、シイナが臣のことを好いているようなのはなんとなく解った。というか、あれだけ敵意剥き出しに嫌味を言われて気付かないほど、千代は鈍くない。
「知ってるわよ。臣さんね、うちの上客なの。うちの店の女の子達の間でも有名よお?臣さんにへったくそな色目使ってる、お隣のいも臭い看板娘千代ちゃん、って」
容赦ねえな。
あからさまな中傷に、千代は傷付く前に吹き出しそうになった。
「いも臭いって言ってる人初めて見た。オヤジの相手ばっかしてるとそうなっちゃうんですか?」
そしてつい反撃してしまった。
大人しそうに見える千代の思わぬ反撃に、シイナが面食らったように眼を丸くする。
「……なによ、臣さんの前では猫被ってるってわけ?」
そういうわけではない。そこまでさらけだすほど親しくないだけだ。
「臣さん、迷惑してるのよ。あんたみたいな一般人に色目使われちゃって、期待させないようにあしらうのって、すっごく大変だって」
ということは、彼女は臣の声を聞いたことがあるということか。
(いいな、私も聞きたいや、臣さんの声)
黙り込んだ千代に、シイナは勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
(なに張り合ってんだろ、この人)
千代は急にバカらしくなって、グラスの中のウィスキーをぐいと飲み干した。
「トイレ」
そして一言告げると、席を立つ。
「なによ、もう逃げるの?つまんないわね」
シイナがさもおかしいといわんばかりに追撃してくるが、千代にはそれが不思議でたまらない。
「逃げるっていうか……貴女と私じゃ、土俵にも上がってないのに」
こういうの不毛でしょ。どう考えても。どっちかっていうと、わたしが。
「貴女みたいな綺麗な人が、なにこんないも臭い小娘と張り合ってんですか?貴女のほうが、よほど臣さんにお似合いだって、わかってますよ」
千代が言い切ると、シイナがかっと頬を赤くした。
それ、照れてんのかな、それとも馬鹿にされたと思ったかな。
(どっちでもいいんですけど)
あえてどっちでも取れるように言ったのだ。そこらへんはお任せする。
今度こそ千代はシイナから逃げた。
このまま店外に飛び出して布団で不貞寝したいところだが、酒を二杯もいただいてしまった。ここの金は俺が持つ、と豪語していた一ツ橋に一言ごちそうさまと伝えなければ。
「あれ、おねーさんどしたの、トイレぇ?」
トイレへの通路で、丁度一ツ橋とかち合った。
濡れた手をそのままぶらぶらさせていたので、コートのポケットに突っ込んでいたハンドタオルを差し出してやる。遠慮なくそのタオルで濡れた手を拭き取った一ツ橋を、千代は見上げた。
「一ツ橋君、わたしもう帰るよ。今日はご馳走様でした」
またね、とさくっと帰ってしまおうと踵を返した千代を、一ツ橋が慌てて引き止める。
「えー!まだ来たばっかじゃん!なんでなんで?もっとお話しようよー」
着たままだったミリタリーコートの裾を掴んで、一ツ橋が懇願するように千代の顔を覗き込んでくる。
「お話ならあの綺麗なホステスさんとどうぞ」
掴まれたコートを素早く引き抜くと、千代は一ツ橋のガードからするりと抜け出した。こういうとき、小柄な体は便利である。
「えー、俺はおねーさんがいいよー」
しつこい。
背中を向けた千代の肩に、一ツ橋の腕が回される。おいさわんな。
「じゃあさ、このままふたりで抜け出そっか?ご飯が美味しいラブホ近くにあるよ」
一ツ橋の吐く息が千代の耳を掠める。
ヤル気満々だな、と千代は呆れた。大学生の男の子って、年中盛ってるんだろうか。
「高嶺の花より手近な私ってわけ?勘弁してよ」
千代がすげなく断ると、一ツ橋がにやりと笑みを浮かべた。
「おねーさんてばつれなーい。そんな冷たくしなくたって、俺おねーさんにめろめろだよ?」
いや別に、駆け引きで冷たくしてるんじゃない。
的外れな言葉の数々に、これならいっそ、シイナと会話していたほうがましだったかもしれない、とすら思う。
「ねえ、一緒に抜けよ?」
やだよ、だってあんた臣さんじゃないもん。
ふっ、と一ツ橋が千代の耳に息を吹きかけた。
そんなんで全オンナが感じると思ったら大間違いだから、このクソガキ。
(……あーあ、臣さんに会いたい)
ゴッ。
千代がいよいよ面倒くさくなったとき、鈍い衝撃音と共に、体をものすごい力で引っ張られた。
「おや、千代嬢じゃありませんか」
聞き覚えのある声。
「志摩さん?」
しかし千代の視界は、真っ黒ななにかで覆われてその姿を確認することができない。
一ツ橋とは明らかに違う大きくて分厚い掌が、千代の肩を覆うように回されていた。
「これはこれは、まさかこんなところで会うなんてねえ」
にこにこした志摩の声音だが、なんだかいつもより険を含んでいるようにも聞こえる。
私なにかしたっけ。
「ちょっと若、相手はカタギの坊ちゃんですよ。なにやってるんですか」
それから、成熟した女性の声。
若ってだれ?
ぐいと腕をつい立てて、千代は黒い物体から離れた。
予想したとおり、そこにはいつもと変わらない臣が立っていた。
どうやら臣の腕の中に抱えこまれていたらしい。なにそれ美味しいな。
千代はじっと臣の眼を見た。
いつもの臣だが、その眼にはどこか苛立ちが含まれているように見える。
振り向くと、白目を剥いた一ツ橋が仰向けで床に倒れていた。
臣の巨体の後ろに、志摩とこのクラブのママ、曜子の姿を認め、ああ、と納得する。
「すみません臣さん、助かりました」
千代がぺこりと頭を下げると、臣が小さく頷いた。
(いつもの臣さんだ……)
ほっとする。会えばどうなることだろうと思っていたのに、今、千代の目の前にいるのはいつもどおりの臣だ。
千代がどうしても眼で追ってしまう、森の熊さんのような臣。
「志摩さんも、ママさんも。すみません、お騒がせして」
千代が頭を下げると、美しい曜子はいいのよいいのよ、と笑ってくれた。
が、今日はなんだが志摩の様子がおかしい。妙にささくれ立っているような気配がする。
道行く老若男女を振り返らせるスマートなロマンスグレーとはかけ離れた雰囲気だ。
「ここ、志摩さんたちの行き着けなんですね。さっき綺麗なおねえさんに聞きました」
その雰囲気を和らげようとしつつ、嫌味が口を突いて出てしまった。
一ツ橋をガキ呼ばわりできない幼稚さである。千代はそんな自分が情けなかった。
しかし千代のその言葉に、志摩は穏やかになるどころか眼光を鋭くさせた。
睨まれているわけではないが、明らかに負の感情を向けられている。その口許には笑みすら刷いているというのに、世の中、器用な人もいたものである。
「千代嬢こそ、わけえ男集団に混じってこんな店にくるなんて、どうしたんです?」
「……はあ、そこの一ツ橋くんに誘われたもので」
どうやら千代の行動の軽薄さが気に喰わないらしい。
千代の半端な返事に、志摩の眉がひくりと震えた。
「千代嬢ともあろうお方が、随分と尻軽な真似をしてくれる。素直で真面目な女の子かと思いきや、若い男引っ掛けて悦びやがるアバズレだったんですかい」
志摩の形のいい唇が、歪んだ。
ひどい言い様である。
これにはさすがの臣が黙っていなかった。臣の手が勢いよく志摩の襟首を掴んだが、臣が動くより早く、曜子の拳が志摩の頭を打った。
妙な沈黙が流れる。
臣は、志摩の胸倉を掴んだまま千代を見ようとしなかった。
それがいたい。
「……だとしても、志摩さんに関係ありませんよね。いきつけの居酒屋のアルバイトがどんな女だろうが、全く、これっぽっちも、あなたには関係ありませんよね」
情けないが、最初のほうは震えた。
なんでこんなこと言われてんだ、とシイナに引き続き二回目である。
今日は厄日に違いない。
「それとも、不道徳な小娘をおじさんが正しい道に引き戻してあげようっていう有り難いご厚意でしょうか?そういうの、なんていうか知ってますか、余計なお世話って言うんですよ、志摩さん」
シイナに引き続き、まさか志摩にまでそんなことを言われるとは思ってもみなかった。
聞きようによっては、志摩のほうが百倍くらい酷い。