徒花
「なぁ、やっぱ今でも思い出したりとかすんの?」

「わかんない。っていうか、もうあんまり覚えてないの」

「うん?」

「気持ち悪かったとか、怖かったとか、そういう感覚的なものは残ってる。けど、何されてたかとかそういうのは、記憶が抜け落ちてるっていうか」


それはクスリの所為なのか、それとも脳の持つ機能の所為なのか。

とにかく今ではもう、“レイプされた”という事実以上のことは、私の頭の中から消え去っていた。


私は自嘲気味に笑ってしまう。



「あれからずっと、ふわふわした世界にいた気がする。昼も夜も、上下も左右もわからなかった。きっと私は現実を見るのが怖かったんだと思うの」

「………」

「コウの手に触れられる度に、夢のような世界が溶けてなくなる気がしてた。だからそれがすごく嫌だった」

「………」

「でも私もう大丈夫だから。負けたくないって、今は思う」

「そっか」


コウは私の頭をくしゃくしゃにした。


コウのあたたかい手は、いつも私を救ってくれる。

やっとそれが心地のいいものなんだと思い出した。



「マリアが笑った」


コウはそう言って、ひどく優しい顔をした。


降り始めた雨は窓を打つ。

けれどもう、それが悲しい音に聞こえることはない。



「ねぇ、コウ」

「ん?」

「仕事は?」

「辞めたよ。マリアといたいから頑張ってたけど、肝心のマリアがいなくなったら、何のために働いてんのかわかんなくなって。そんでサボりまくってたら、クビになった」


私の所為だ。

と、思った私の思考を読んだように、コウは、
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