風の吹かない屋上で
「美由紀、塾通ってたのか。……あ、この人誰か分かるか? 美由紀はまだ小学校低学年だったから覚えてるか分からねぇけど、愛花姉ちゃんだ」
美由紀は話も聞かずに俺と愛花姉ちゃんを交互に見つめると途端に血相を変えて叫んだ。
「お兄ちゃん! その人から離れて!」
言われた訳がわからなくてぼーっと突っ立っていると、美由紀はつかつかと俺に歩み寄り、腕を引っ張って無理矢理愛花姉ちゃんと俺を引き離した。
「なにすんだよ!」
「それはこっちのセリフだよ! お兄ちゃん、忘れたの? 愛花姉ちゃんは死んじゃったんだよ」
「どこに証拠があんだよ! 俺は……俺は愛花姉ちゃんの葬式にも行ってないし死体も見てねぇんだよ!」
俺が愛花姉ちゃんの死で真っ先に浮かんでくるのは電話の声だけで、それ以上の記憶が無い。
じゃあもうこの人が愛花姉ちゃんだと信じるしか、無いじゃないか。
「お兄ちゃん……愛花姉ちゃんは死んじゃったよ、あたしの目の前で」
「嘘つくんじゃねぇ!」
「Sビル、あるでしょ? あそこの屋上から見える夕焼けが綺麗だから、自宅療養期間の愛花姉ちゃんをそこに連れて行ったの」
Sビルは、確か今俺の隣にいる愛花姉ちゃんが飛び降りようとしていたビルだ。
もうずいぶん昔から建っている古いビルで、なかなか取り壊されない。
「愛花姉ちゃんはよくあたしの面倒を見てくれたから、買い物に行くって言えばおじさんもおばさんもなんにも疑わなかった」
「美由紀、いくら美由紀でも許さねぇぞ!」
「愛花姉ちゃんはうっとりしてて、夜になってもそのままだったの。美由紀ちゃんは先に帰って。お姉ちゃんはもっとここにいるから、って言われてあたしは愛花姉ちゃんを屋上に置いてビルを降りた」
「おい美由紀!」
「ビルを降りて横断歩道を渡った時、ふと愛花姉ちゃんの姿を探したの」
俺の中の愛花姉ちゃんが消えていく。困ったようなあの笑顔も、透けるほど白い肌も、よく繋いでくれたあのてのひらのぬくもりも。
「愛花姉ちゃんが、落ちて行くのを見たの。真っ逆さまに、下に落ちて行くのを」
消えていく。
飽和。
泡となり、粒となり。
その先は完全な無。
消えていく。
消えていく。
色鮮やかな記憶から色が消えてモノクロに変わる。
愛花姉ちゃんの声が消えて無音に変わる。
手のぬくもりも、近寄った時にわかるシャンプーの匂いも、消えて消えて消えて消えて……。
「お葬式に参加できなかったのもおじさんとおばさんに合わせる顔が無かったからなの。あたしが、愛花姉ちゃんの自殺の誘発剤となったのは確実だったもの」
「……」
雑踏が冷たく辺りを取り囲む。
「お兄ちゃんの隣にいる人は、愛花姉ちゃんじゃない。……だから、離れて」